むかし、ある長老から教えていただいた教えの断片を少しここに記してみようと思います。
『きれいとは何か? うまいとは何か? 何も知らずに広告や人の話に操られているのが、現代。自分で判断しようとしない。人に言われて鵜呑みにして疑うことをしない。自立していない。』
本当にその通りではないか。私たちは、自分で考える前に情報があり、広告やコマーシャルをそのまま信じて疑うことをしない。身体の細い人が美しく、流行の服を身につけていると格好いいと思う。が、それが本当に自分に合うのか、その場に相応しいのかということまで考えない。
食品にしても、広告でうまそうに食べるシーンがあれば美味しいものだと思いこむ。それがどれほど健康に良くないものかも考えない。また高価なものはよいものだと思ったり。随分前の話にはなるが、日本のお米が不作だった年に、タイのお米が輸入された。
食べる人がいなくて、タイ米を付けたお米ではないと買えないなんていう時期もあった。10キロ1万円以上したのではなかったか。丁度私はその時インドから日本に帰っていて、そのタイ米を友人から沢山もらって、毎日カレーを作り食べていた。
日本米は日本米の食べ方、タイ米にはタイ米のおいしい食べ方がある。戦中戦後の何もなかった時代ならタイ米でもみんな喜んで食べたはずなのに。当時は贅沢になれて、工夫して美味しく食べる知恵も失って不平ばかりが聞こえてきたものだった。
『身体の言うことで判断している。身体の奴隷で一生終わっていいのか。身体を心に従わせることをしないといけない。』
暑いの寒いのとすぐに口に出してはいまいか。楽を求めてはいまいか。怠ける癖がついてはいまいか。好きなことには文句一つでないのに、嫌なことをしているとすぐに愚痴が出てくる。私たちには、誰もがそんな習性があるのではないかと思う。
お寺の脇の道を日曜日になると暗いうちから乗用車が上に駆けていく。ゴルフ場に急ぐ車である。毎日仕事に行くとなれば一分でも長く寝ていようとするのに、好きなゴルフができるとあれば、我先に起き出して、車を出す。誰もがそんなものではないか。
宿題をしているときはダラダラ寝ころんだりいつまで経っても先に進まない子供も、好きなアニメを見れるとなればテレビの前に正座をして見ていたりする。いつも好きなことをしているときと同じように身体を従わせる強い心が必要なのであろう。
『どんなに偉いことを考えていると思っても所詮妄想に過ぎない。考えることは良いことと思い、好きに任せている。』
さとっていないうちは、何を考えてもみんな煩悩でものを考えている。自分の都合の良いように、利益になるように、身勝手なものの考え方をしているものだということだ。人は考える葦であるという。考えることが人としての人たるゆえんなのだともいう。
しかし普段私たちのしていることは、本当にヒューマンビーイングとして恥ずかしくない思考をしているだろうか。猿と同じように目に付くもの、耳に入った音、匂い、味、触れるものに反応し、考えているだけなのではないか。
すきなもの好ましいものは、欲しくなったり、近くにあって欲しい。きらいなもの好ましくないものには、怒ったり、遠ざけたり。さらには、過去の記憶を追想して、楽しい思いにひたったり、怒り心頭に身を震わせたり。
私たちは、考えることはいいことだと思っている。しかし、本当はのべつまくなしに闇雲に考えるのではなく、ただ今ここにある物事の有り様、様子、自らの行い、思いに気付き観察することこそが自らを知り、心落ち着いた時間を過ごす秘訣なのであろう。
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『きれいとは何か? うまいとは何か? 何も知らずに広告や人の話に操られているのが、現代。自分で判断しようとしない。人に言われて鵜呑みにして疑うことをしない。自立していない。』
本当にその通りではないか。私たちは、自分で考える前に情報があり、広告やコマーシャルをそのまま信じて疑うことをしない。身体の細い人が美しく、流行の服を身につけていると格好いいと思う。が、それが本当に自分に合うのか、その場に相応しいのかということまで考えない。
食品にしても、広告でうまそうに食べるシーンがあれば美味しいものだと思いこむ。それがどれほど健康に良くないものかも考えない。また高価なものはよいものだと思ったり。随分前の話にはなるが、日本のお米が不作だった年に、タイのお米が輸入された。
食べる人がいなくて、タイ米を付けたお米ではないと買えないなんていう時期もあった。10キロ1万円以上したのではなかったか。丁度私はその時インドから日本に帰っていて、そのタイ米を友人から沢山もらって、毎日カレーを作り食べていた。
日本米は日本米の食べ方、タイ米にはタイ米のおいしい食べ方がある。戦中戦後の何もなかった時代ならタイ米でもみんな喜んで食べたはずなのに。当時は贅沢になれて、工夫して美味しく食べる知恵も失って不平ばかりが聞こえてきたものだった。
『身体の言うことで判断している。身体の奴隷で一生終わっていいのか。身体を心に従わせることをしないといけない。』
暑いの寒いのとすぐに口に出してはいまいか。楽を求めてはいまいか。怠ける癖がついてはいまいか。好きなことには文句一つでないのに、嫌なことをしているとすぐに愚痴が出てくる。私たちには、誰もがそんな習性があるのではないかと思う。
お寺の脇の道を日曜日になると暗いうちから乗用車が上に駆けていく。ゴルフ場に急ぐ車である。毎日仕事に行くとなれば一分でも長く寝ていようとするのに、好きなゴルフができるとあれば、我先に起き出して、車を出す。誰もがそんなものではないか。
宿題をしているときはダラダラ寝ころんだりいつまで経っても先に進まない子供も、好きなアニメを見れるとなればテレビの前に正座をして見ていたりする。いつも好きなことをしているときと同じように身体を従わせる強い心が必要なのであろう。
『どんなに偉いことを考えていると思っても所詮妄想に過ぎない。考えることは良いことと思い、好きに任せている。』
さとっていないうちは、何を考えてもみんな煩悩でものを考えている。自分の都合の良いように、利益になるように、身勝手なものの考え方をしているものだということだ。人は考える葦であるという。考えることが人としての人たるゆえんなのだともいう。
しかし普段私たちのしていることは、本当にヒューマンビーイングとして恥ずかしくない思考をしているだろうか。猿と同じように目に付くもの、耳に入った音、匂い、味、触れるものに反応し、考えているだけなのではないか。
すきなもの好ましいものは、欲しくなったり、近くにあって欲しい。きらいなもの好ましくないものには、怒ったり、遠ざけたり。さらには、過去の記憶を追想して、楽しい思いにひたったり、怒り心頭に身を震わせたり。
私たちは、考えることはいいことだと思っている。しかし、本当はのべつまくなしに闇雲に考えるのではなく、ただ今ここにある物事の有り様、様子、自らの行い、思いに気付き観察することこそが自らを知り、心落ち着いた時間を過ごす秘訣なのであろう。
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