住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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塔婆とは何か-仏塔にまつわる四方山話

2006年11月23日 09時24分59秒 | 仏教に関する様々なお話
幅3寸ほどの細長い板になった塔婆を、みんな塔婆と言い習わして、何か法事をした印のように思っている。正確にはというか、正式には卒都婆(そとわ)という。卒都婆とは、仏塔を意味するインドの言葉・ストゥーパが中国で音訳された言葉である。

ストゥーパは、もともとインドのマディヤプラデーシ州都ボパール市から67kmの所にあるサンチーの仏塔のように、土饅頭型に土やレンガを盛り上げたものであったようだ。そして、その仏塔の頂上には、方形の柵があり中央に傘のようなアンテナのようなものが取り付けられている。それは日本の仏塔にも九輪や水煙となって継承されている。サンチー第一塔は、高さ16.5メートル、直径36.6メートル。

因みにサンチーの仏塔には、現在お釈迦様の高弟サーリプッタとモッガーラーナの遺骨が納められている。これは、英国統治時代を経て、戦後、1952年11月ネルー首相の時に、歴史的な式典を催して納骨された曰く因縁のものだと聞いた。

その時、私のインドの師ダルマパル・マハーテーラ(大長老)は若き日に、その祝典に立ち会い、ネルー首相と親しく言葉を交わした。その時の写真が当時の新聞に大きく掲載されていたのをカルカッタで見せていただいたことがある。加えて、その歴史的な意義、仏教徒にとってどれだけ重要なものかを説く文章を執筆され、そこに署名入りで掲載されていた。

そしてお釈迦様の生誕2500年に当たる1956年、その年のブッダ・ジャヤンティ(お釈迦様の誕生と成道と涅槃を祝う式典)は、ネルー首相によって国を挙げて盛大に開催され、以来その日は祭日とされた。しかし後にその仏教徒の祭日はカレンダーから削除され今日に至っているのだが。

さて、本題に戻ろう。かくして、このサンチーの仏塔に代表されるもともと土饅頭型であった仏塔は、後に様々な形に変形する。たとえば、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパは、今日では上にレンガを積み重ねて、大きな円形の二重の土壇となり、周りに様々な造形が彫刻されて、上が少し尖った姿になっている。高さ43メートル、直径28メートル。

そしてインドから中国に至ると、屋根がつき、それが幾重にも重なり細長い姿になる。日本では、さらに三重塔、五重塔、七重塔という姿に変形する。また真言宗寺院に見られる多宝塔は、屋根は二重ではあるけれども、その間に特徴的な丸いドーム型の胴があり、おそらくこれは、五輪をイメージしたものなのであろう。チベットの仏塔もこのような五輪を意識した形をしている。

五輪とは、宇宙の真理を身体とする毘廬舎那如来(大日如来)をあらわしており、上から、宝珠・半円・三角・円・方形を重ねたものである。この五輪を石で刻んだ五輪塔は、日本では今日、先祖墓であるとか、僧侶の墓として、よく目にするものである。

そして、この五輪塔を板で拵えたものが塔婆と言われるものである。だから上の部分が五輪に似せて刻まれている。では、この塔婆をなぜ法事の際に建立するかと言えば、塔を建立することが仏教を広め、その教えにまみえた人々を幸福に導くシンボルとして功徳あるものであるからである。

昔、お釈迦様滅後200年頃に登場するマウリア王朝のアショーカ王は、それまで8カ所に納められていたお釈迦様のご遺骨を一度集めて2000に分け、そしてそれらをインド全国にすべて別々の場所に仏塔を建立して祀り、その近くには岩や石柱に仏教の教えを刻んだ。

冒頭に記したサンチーには、お釈迦様は一度も訪れなかったが、アショーカ王が大ストゥーパを造り、この地で生まれた王子マヒンダが出家したため、僧院を建てた。そうして、沢山の仏塔をインド全国に建立することによって、それまでガンジス河中流域の一部の地域にしか広まっていなかった仏教がインド全域に広まったのであった。

その故事に習って塔婆という、細長い板に梵字や精霊の戒名を記した簡易な仏塔を建立し、仏教を伝え広めて人々を幸せにする功徳を、今は亡き精霊に、また先祖に差し上げる、回向するために塔婆は建立されるのである。

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