7月の晴れた日曜日、めでたく仮校舎もでき、無料中学校が開校した。20名ほどの赤と白の柄シャツに薄茶のズボンとスカートの制服を着た学生が入学し、式の後、近隣の多くの子供たちに施食が行われた。
こういうときは小さめのプーリーというパンを油で揚げる。なかなか美味しいのでつい食べ過ぎて腹をこわす。結婚式や葬式でも人が大勢集まるときには作られるようだ。
学生達が毎日やってきて賑やかになる。朝は毎日朝礼で、「ナモータッサバガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」とお釈迦様に挨拶し、「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
みんなヒンドゥー教徒の子供達だが、仏教の学校に入って、仏さんに供養された寄附金で運営されている学校で学ぶのだから、誰も親たちも文句を言わない。
それから各教科の授業にはいる。私は、一人図書室で、パーリ語のダンマパダ(法句経)を水野弘元先生の辞書と長井真琴先生の文法書で毎日一偈ずつ四苦八苦して調べ自分で訳文を作り、今度はヒンディ語の辞書を片手にヒンディ語に訳した。勿論、ヒンディ語訳のついた現地で手に入る数種類のダンマパダを参照しながらではあるが。
それが終わるとサールナートに寄付を乞うために自転車で出かけ、夕方には、後藤師のパーリ語の指導を受けた。後藤師は、日本では有名な小栗堂仏教研究会を主催して、毎年夏に一週間のパーリ語の講習会を開いていたことで知られている。この講習会は今でも、愛知県安城の慈光院戸田忠先生が引き継ぎ行われている。
後藤師の日本語は茨城訛りがあり、だから、ヒンディ語もパーリ語もどこか訛ってはいるが、教え方は天下一品だった。何も分からなかった私が、一年間で、法句経423偈すべてを自分で辞書を頼りに訳し、ヒンディ語訳も作れるようになった。インドのノートで、5冊ある。私の宝物の一つである。今でも後藤師には感謝している。
しかし、ヒンディ語はというと、なかなか上達しなかった。それでも8月になって、東京から知り合いやら母親がインドに来るので、カルカッタに迎えに出た。ハウラーから急行のコンパートメントに初めて乗り、ベナレスに同行し、サールナートのお寺やらを案内して、お寺の無料中学の紹介ビデオを作ったりして、また、カルカッタに送り、サールナートに戻ってみたら、ダージリンから来たチベット系の少年ディペンがいた。
8歳だという事だったが、どうやら年齢詐称で、実は6歳だった。どうりで私より文字が分からない。でも、ヒンディ語は私より流暢だ。それで、この子を何とかお寺で仕事が出来るように仕込む係になって、ヒンディ語で命令し、怒ったり、冗談を言ったりしていて、何とかヒンディ語が自分の物になり始めた。
そうしたら、日本から、高校生がやってきた。少し家庭内に問題があって、インドに預けたいとのことで、同居することになった。大きな体で、何とも取っつきにくい。でも、この学生さん料理が上手で、みんなの食事を全部朝以外ではあるが任せてやり出したら途端に良い子になった。年末にお母さんが迎えに来たときまでは良い子だった。でも、母親の顔を見るなり、元に戻ってしまったようだったのは残念だった。
サールナートにいると各国の諸行事に招かれた。5月の満月の日にはお釈迦様の生誕と成道と入滅を祝うブッダジャヤンティが盛大にあり、戦前お堂の壁に野生司香雪画伯が釈迦一代記を描いたムルガンダクティビハーラで、祭典があった。経文を読むより、おおぜいの弁士により講演が長々と行われ、11時すぎ頃から食事が供養された。
また、10月には、カティナチーバラダーンという雨安居(うあんご)開けの比丘に特別に用意した袈裟を供養する儀式も賑々しく行われた。ときどき、沙弥の戒師をしてくれたミャンマー寺に呼ばれて昼食を頂くこともあった。ニマントランと言われ、ミャンマーから来た篤信者からの食事の供養だった。沢山の小皿に盛られたミャンマー料理が食べきれないほど出されてとてもありがたく思った。
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日記@BlogRanking
こういうときは小さめのプーリーというパンを油で揚げる。なかなか美味しいのでつい食べ過ぎて腹をこわす。結婚式や葬式でも人が大勢集まるときには作られるようだ。
学生達が毎日やってきて賑やかになる。朝は毎日朝礼で、「ナモータッサバガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」とお釈迦様に挨拶し、「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
みんなヒンドゥー教徒の子供達だが、仏教の学校に入って、仏さんに供養された寄附金で運営されている学校で学ぶのだから、誰も親たちも文句を言わない。
それから各教科の授業にはいる。私は、一人図書室で、パーリ語のダンマパダ(法句経)を水野弘元先生の辞書と長井真琴先生の文法書で毎日一偈ずつ四苦八苦して調べ自分で訳文を作り、今度はヒンディ語の辞書を片手にヒンディ語に訳した。勿論、ヒンディ語訳のついた現地で手に入る数種類のダンマパダを参照しながらではあるが。
それが終わるとサールナートに寄付を乞うために自転車で出かけ、夕方には、後藤師のパーリ語の指導を受けた。後藤師は、日本では有名な小栗堂仏教研究会を主催して、毎年夏に一週間のパーリ語の講習会を開いていたことで知られている。この講習会は今でも、愛知県安城の慈光院戸田忠先生が引き継ぎ行われている。
後藤師の日本語は茨城訛りがあり、だから、ヒンディ語もパーリ語もどこか訛ってはいるが、教え方は天下一品だった。何も分からなかった私が、一年間で、法句経423偈すべてを自分で辞書を頼りに訳し、ヒンディ語訳も作れるようになった。インドのノートで、5冊ある。私の宝物の一つである。今でも後藤師には感謝している。
しかし、ヒンディ語はというと、なかなか上達しなかった。それでも8月になって、東京から知り合いやら母親がインドに来るので、カルカッタに迎えに出た。ハウラーから急行のコンパートメントに初めて乗り、ベナレスに同行し、サールナートのお寺やらを案内して、お寺の無料中学の紹介ビデオを作ったりして、また、カルカッタに送り、サールナートに戻ってみたら、ダージリンから来たチベット系の少年ディペンがいた。
8歳だという事だったが、どうやら年齢詐称で、実は6歳だった。どうりで私より文字が分からない。でも、ヒンディ語は私より流暢だ。それで、この子を何とかお寺で仕事が出来るように仕込む係になって、ヒンディ語で命令し、怒ったり、冗談を言ったりしていて、何とかヒンディ語が自分の物になり始めた。
そうしたら、日本から、高校生がやってきた。少し家庭内に問題があって、インドに預けたいとのことで、同居することになった。大きな体で、何とも取っつきにくい。でも、この学生さん料理が上手で、みんなの食事を全部朝以外ではあるが任せてやり出したら途端に良い子になった。年末にお母さんが迎えに来たときまでは良い子だった。でも、母親の顔を見るなり、元に戻ってしまったようだったのは残念だった。
サールナートにいると各国の諸行事に招かれた。5月の満月の日にはお釈迦様の生誕と成道と入滅を祝うブッダジャヤンティが盛大にあり、戦前お堂の壁に野生司香雪画伯が釈迦一代記を描いたムルガンダクティビハーラで、祭典があった。経文を読むより、おおぜいの弁士により講演が長々と行われ、11時すぎ頃から食事が供養された。
また、10月には、カティナチーバラダーンという雨安居(うあんご)開けの比丘に特別に用意した袈裟を供養する儀式も賑々しく行われた。ときどき、沙弥の戒師をしてくれたミャンマー寺に呼ばれて昼食を頂くこともあった。ニマントランと言われ、ミャンマーから来た篤信者からの食事の供養だった。沢山の小皿に盛られたミャンマー料理が食べきれないほど出されてとてもありがたく思った。
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