住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

[中外日報掲載]釋興然② 南方僧団移植事業

2007年03月09日 08時58分35秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
中外日報3月8日付『近代の肖像』危機を拓く第107回

 釋興然② 南方僧団移植事業

明治四十三年、興然は釋王殿建設を発願した頃、『釈尊正風』という冊子を発刊している。

それによれば、当時の仏教を批判して、「今日の如く仏教を世道から厄介視せられ、教育に於いて関係なきが如く思わしめるようになったのは何故かと云うに、多くは之れ教導者の罪である。僧侶の教えない咎である」と述べた。

決して仏教が衰退したからではなく、日本仏教が分裂多岐にわたり正道を見失い迷ったからであるとして、「仏教に南北の教系を異にし、宗派に千百の別はあるが、その最初の開教法主は仏陀釈尊である。(中略)だから真に仏教の仏教たる所以を明らかにするには、どうしても釈尊の仏教そのものの生命に帰らなければならぬ」と釈尊の教えに回帰する必要を説いた。

そして、興然は、釈尊時代の初期仏教の伝統を保持すると言われる上座(テーラワーダ)仏教によって信仰の統一、行動の一致、目的を明白にすべきだと主張している。

この確信に満ちた筆致に、自らがセイロンで受けた上座部所伝のパーリ律による尊い戒律の護持とスマンガラ大長老のもとで修行した上座仏教の瞑想修行、そして経論を学ぶためのパーリ語修得など、これらに対する興然の並々ならぬ自信の程が窺い知れる。

昭和五十三年に三会寺のパーリ写本を調査したパーリ学仏教文化学会の前田惠學・愛知学院大学名誉教授は、「興然師が有名経典の多くや基本的な戒律、一部論蔵にまで研究が及んだことが分かる。特に戒律とサティパッターナ(四念処)の瞑想法を重視したことが写本リストを見ても窺われる」(『前田惠學集』三)と述べている。

セイロンでは、後に臨済宗円覚寺派管長となる釋宗演師が一時期同じ僧院で共に修行に励み、また明治二十八年頃、河口慧海、鈴木大拙らも三会寺で、パーリ語やインド事情を興然から学んだ。

仏教学研究の基礎を築いた高楠順次郎や宗教学の創始者姉崎正治も、パーリ語で分からないことがあると生徒を連れて興然のもとを訪れていたという。

興然が、帰国早々に満を持して創立した「釈尊正風会」は、南方僧団移植を目的としていた。第一期から第四期まで五名の僧侶をセイロンに派遣。何れもセイロンで比丘となり日本での活躍を期待されたが、結局、ソービタ鳥家仁度、アーナンダ吉松快祐の二名のみが比丘として残った。

その後、比丘興然は、たとえ僧団の移植はかなわずとも、釋王殿を建設し、北伝仏教しか知らない日本仏教徒に、南伝仏教による釈尊の教えを宣布する本拠となることを願っていたであろう。

叔父である雲照は、仏教の根本教理を戒律とともに重視することを説いた。しかるに興然は、セイロンの南方上座仏教の戒定慧の三学すべてをそのまま移植することを念じた。

平成にいたって、スリランカやミャンマーの比丘、またタイで出家した日本人比丘が来日して上座仏教を布教する時代となった。昨年はスリランカのシャム派など長老比丘が多数来日され、上座仏教により正式に認定された「戒壇」ができた。

正に隔世の感がある。しかし、かくなる時代の推移を最も歓ばれているのが、誰あろう興然その人ではないかと思う。

やっとヨーロッパ経由で近代仏教学を輸入し始めた明治時代に、一人南方上座仏教の真価を見出した興然は、余りにも時代を先取りしすぎたのかもしれない。

興然は、日本が近代国家に変貌していく時代に、仏教も世界基準の仏教たるべしとの信念を抱き、釈尊直伝の教えをもってそれに換える運動をしたのだと言えよう。終


◎この度は、伝統ある「中外日報」紙に、5回に亘り小生拙稿をご掲載いただけましたことに感謝申し上げます。益々同紙による仏教並びに宗教宣布により、より良い国家社会が実現されますことを念じます。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする