一昨日、19日朝7時にお寺を出て、バスに乗り込む。東に国道を進み乗り合わせた同行39人とともに一路京都大原を目指して山陽自動車道を駆ける。笠岡インターから高速に乗り、道中祈願。般若心経に今日各お堂でお唱えする諸尊のご真言をお唱えする。
三千院・寂光院は天台宗のお寺。先だって電話で問い合わせると、心経でよろしいとのこと、また真言は真言宗と同じ平安時代に開かれた天台密教であるから同じようだ。しかし回向文が場合によったら、変更の可能性があり、「願以此功徳・平等施一切・同発菩提心・往生安楽国」もお唱えしておく。
今回はバスの中で、インドの話を中心に話をする。インドへ行かなくては仏教は分からない、そう考えて一度目のインド巡礼では、リシケシというヨガのふるさとでインドの宗教を垣間見て過ごしたこと。そして、僧としてどうあるべきかと考え始めたとき、二度目のインドに行く機会を得たこと。
そしてその時サールナートの後藤師に会い、インドの仏教が13世紀に消滅したのではなかったことを知り、インド僧になる覚悟をすること。そして、インドで体験した様々な仏教行事や日常のことをお話しした。
そのあと、今社会現象にまでもなっているという「千の風になって」と言う歌を取り上げたNHKのクローズアップ現代の録画ビデオを見た。皆さんとても感銘深くご覧になられたようだった。そして三千院寂光院の解説をして現地に到着。
私にとっては30年ぶりの大原。全くイメージしていた様子と違っていた。呂川に沿って緩やかな坂道を上がる。土産物屋が賑やかに客引きをしていた。三千院前まで参るとちらちら小雪が舞いだした。身震いするほどの緊張の中、三千院の御殿門を入る。
靴を脱いで内拝。客殿宸殿と参り、読経。往生極楽院では読経の後、駐在のお坊さんからお話を伺う。丈六の阿弥陀さんに観音勢至の両菩薩。観音さんは両手で蓮の台を持つ。この蓮台に乗って阿弥陀浄土に旅立つのだという。躊躇せずにその時には飛び乗らにゃいけませんよと言われた。軽妙なお話しにみな和んで話を聞いた。
それから不動堂や観音堂などを参り、そして寂光院まで長い道のりを歩いて参拝。陽春のはずが寒行となってしまった。建礼門院が住まいしていた頃もやはり寒い里であったのだろう。苦労が偲ばれる。29才で大原に入り、その7年後には亡くなられているのだから。
思えば三千院の往生極楽院を建立された真如房尼も29才で主人を亡くしお堂を建て、常行三昧の行に菩提を願った。ともに若くして人生の悲哀を舐め、過酷な行に生きることに救いを求めた。
仏法を分かりやすく、面白可笑しく現代人に説くことも必要だろう。しかし、それが度を超し、今ではどの宗派も耳朶に心地よいことしか言わない風潮が出来てしまってはいまいか。
今私たちの現前にその威厳をもってまた偉容をもって感銘深き姿を、お堂であるとか仏像を、残して下さった、いにしえの人たちがそれらをお造りになったときの思い、厳しさ、激しさに思い至る必要もあるのではないかと思う。
ただお参りして心経を唱えて、はいその蓮のうてなに乗れますよ、という簡単な話ではなかろう。念仏し、弥陀三尊の回りを何日も何日も歩いて浄土への思いを高めていった過去の人々の功徳にすがるだけではいけないであろう。浄土へ思いを馳せるというのはそんなに簡単なことであるなら、それらの人たちがそれだけの厳しい思いをする必要もなかったということになってしまう。
亡くなった人が「千の風になって吹き渡っています」という詩も、身近な人が亡くなって、打ちひしがれる人にひとときの癒しとなり、新たな人生のスタートにしてもらうものとしてそれは素晴らしい内容を持つものであるに違いない。
どんな宗教観を持つ人にも、世界中の人たちにも受け入れられていることは他にない魅力でもある。お経を聞いて心癒されるという時代ではなくなってしまったのかも知れない。
しかし、それだけに終わることなく、人の死ということ、生きるということをさらに探求していく一里塚と受けとめて欲しい。死は再生である、と番組の中で詩の訳者である新井満さんがいみじくも言われていた。
つまり、この詩は既に亡くなった人のことをうたっているだけでなく、正に死というこれまで縁起でもないと封印されていたテーマについて語り、死を自分自身のこととしても探求していく糧であって欲しいと思う。
そんなことを帰りのバスの中で、インドの死生観をテーマに遠藤周作さんが著した「深い河」の映画を見てから、みなさんとお話しした。京都市内の渋滞を避け、琵琶湖西岸を通り帰ってきた。
今回も参加した皆さんが気持ちよくお参りできるように微に入り細に入り心配り下さった倉敷観光金森氏に御礼申します。来週また二便目に参加する。どんな話が出来るだろう。今から待ち遠しく思う。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

日記@BlogRanking
三千院・寂光院は天台宗のお寺。先だって電話で問い合わせると、心経でよろしいとのこと、また真言は真言宗と同じ平安時代に開かれた天台密教であるから同じようだ。しかし回向文が場合によったら、変更の可能性があり、「願以此功徳・平等施一切・同発菩提心・往生安楽国」もお唱えしておく。
今回はバスの中で、インドの話を中心に話をする。インドへ行かなくては仏教は分からない、そう考えて一度目のインド巡礼では、リシケシというヨガのふるさとでインドの宗教を垣間見て過ごしたこと。そして、僧としてどうあるべきかと考え始めたとき、二度目のインドに行く機会を得たこと。
そしてその時サールナートの後藤師に会い、インドの仏教が13世紀に消滅したのではなかったことを知り、インド僧になる覚悟をすること。そして、インドで体験した様々な仏教行事や日常のことをお話しした。
そのあと、今社会現象にまでもなっているという「千の風になって」と言う歌を取り上げたNHKのクローズアップ現代の録画ビデオを見た。皆さんとても感銘深くご覧になられたようだった。そして三千院寂光院の解説をして現地に到着。
私にとっては30年ぶりの大原。全くイメージしていた様子と違っていた。呂川に沿って緩やかな坂道を上がる。土産物屋が賑やかに客引きをしていた。三千院前まで参るとちらちら小雪が舞いだした。身震いするほどの緊張の中、三千院の御殿門を入る。
靴を脱いで内拝。客殿宸殿と参り、読経。往生極楽院では読経の後、駐在のお坊さんからお話を伺う。丈六の阿弥陀さんに観音勢至の両菩薩。観音さんは両手で蓮の台を持つ。この蓮台に乗って阿弥陀浄土に旅立つのだという。躊躇せずにその時には飛び乗らにゃいけませんよと言われた。軽妙なお話しにみな和んで話を聞いた。
それから不動堂や観音堂などを参り、そして寂光院まで長い道のりを歩いて参拝。陽春のはずが寒行となってしまった。建礼門院が住まいしていた頃もやはり寒い里であったのだろう。苦労が偲ばれる。29才で大原に入り、その7年後には亡くなられているのだから。
思えば三千院の往生極楽院を建立された真如房尼も29才で主人を亡くしお堂を建て、常行三昧の行に菩提を願った。ともに若くして人生の悲哀を舐め、過酷な行に生きることに救いを求めた。
仏法を分かりやすく、面白可笑しく現代人に説くことも必要だろう。しかし、それが度を超し、今ではどの宗派も耳朶に心地よいことしか言わない風潮が出来てしまってはいまいか。
今私たちの現前にその威厳をもってまた偉容をもって感銘深き姿を、お堂であるとか仏像を、残して下さった、いにしえの人たちがそれらをお造りになったときの思い、厳しさ、激しさに思い至る必要もあるのではないかと思う。
ただお参りして心経を唱えて、はいその蓮のうてなに乗れますよ、という簡単な話ではなかろう。念仏し、弥陀三尊の回りを何日も何日も歩いて浄土への思いを高めていった過去の人々の功徳にすがるだけではいけないであろう。浄土へ思いを馳せるというのはそんなに簡単なことであるなら、それらの人たちがそれだけの厳しい思いをする必要もなかったということになってしまう。
亡くなった人が「千の風になって吹き渡っています」という詩も、身近な人が亡くなって、打ちひしがれる人にひとときの癒しとなり、新たな人生のスタートにしてもらうものとしてそれは素晴らしい内容を持つものであるに違いない。
どんな宗教観を持つ人にも、世界中の人たちにも受け入れられていることは他にない魅力でもある。お経を聞いて心癒されるという時代ではなくなってしまったのかも知れない。
しかし、それだけに終わることなく、人の死ということ、生きるということをさらに探求していく一里塚と受けとめて欲しい。死は再生である、と番組の中で詩の訳者である新井満さんがいみじくも言われていた。
つまり、この詩は既に亡くなった人のことをうたっているだけでなく、正に死というこれまで縁起でもないと封印されていたテーマについて語り、死を自分自身のこととしても探求していく糧であって欲しいと思う。
そんなことを帰りのバスの中で、インドの死生観をテーマに遠藤周作さんが著した「深い河」の映画を見てから、みなさんとお話しした。京都市内の渋滞を避け、琵琶湖西岸を通り帰ってきた。
今回も参加した皆さんが気持ちよくお参りできるように微に入り細に入り心配り下さった倉敷観光金森氏に御礼申します。来週また二便目に参加する。どんな話が出来るだろう。今から待ち遠しく思う。
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