中外日報3月6日付『近代の肖像』危機を拓く第106回
釋興然① 略伝
釋興然師(一八四九-一九二四)は、混迷する仏教界から一人セイロンに渡航し、日本人として初めて南方上座仏教の比丘となった人である。
興然は、明治仏教界の第一人者であった釋雲照律師の甥にあたり、嘉永二年、現在の島根県出雲市塩冶町に生まれた。十歳のとき雲照の実兄宣明について得度。十三歳で真言宗の初歩の修行である四度加行を修し、十八歳で高野山に登り宗学を学んだ。
十九歳の時明治維新を迎えた興然は、政府当局に建白を重ねていた雲照に随順し、この頃から薫陶を受けていたであろう。明治七年雲照が勧修寺門跡となり、大教院派遣の講師として諸国教導職指南のために布教して歩いた時期にも随侍して講義を聴いた。
明治九年、二十八歳の時には教部省から少講義に任ぜられ、明治十三年、前年の大成会議で制定された真言宗統一の中学林を、雲照が東京に設立した際にも、興然は助手として随った。
明治十五年三十三歳の時、横浜鳥山の中本寺・三会寺に住職する。そしてこの頃既に興然はインド遊学の志を持っていた。翌十六年には本山にインド渡航を願い出ており、十七年には総黌の学費から旅費を捻出することを請願している。
明治十九年、東京に出て目白の新長谷寺に落ち着いた雲照は、インド人からブッダガヤの地が荒廃していることを聞いた。そこで、直ちにインドへ憧憬を寄せる興然をセイロンに派遣する。
興然は、セイロン南部の港町ゴール近郊カタルーワ村のランウエルレー・ヴィハーラで南方仏教の沙弥としてパーリ語の学習と仏道修行を開始。一年余り後にはコロンボのシャム派最大の寺院ウィドヨーダヤ・ピリウエナ・ヴィハーラのヒッカドゥエ・スマンガラ大長老のもとに修学の場を移した。
そして、渡航五年目の明治二十三年六月、遂に興然は、キャンディのシャム派総本山マルワトゥ・ヴィハーラでスマンガラ大長老より具足戒(パーリ律二二七戒)を授けられた。興然グラナタナ比丘四十一歳。ここに日本人で初めて、南方上座仏教の比丘が誕生した。
翌二十四年興然は、セイロン人で後にインドの仏蹟復興をはたすダルマパーラ居士と共にインドのブッダガヤに参詣する。釈尊成道の地は当時既にヒンドゥー教徒が管理していたが、興然とダルパーラはこの地を買収して仏教徒にとって最も神聖なる場として再生することを誓う。
各仏教国からも募金し国際仏教会議を開催するものの、英国政府から仏教徒の支配のために仲介することは出来ないとの回答があり断念した。
明治二十六年、興然は南方仏教の黄色い袈裟を纏い比丘のまま三会寺に帰り、南方僧団移植のために「釈尊正風会」を結成。後に西園寺内閣の外務大臣となる林董が会長となった。
当時一級の知名人、学者、宗教者など八百名が会員となり、数度にわたりセイロンに若い優秀な僧侶を派遣。受戒に要する五人の比丘僧団を組織することを期した。しかし、志を貫くことの難しさに戦争も影響し、二人のみが比丘に留まった。
五十九歳の時当時最も持戒堅固な清僧としてシャム国に招待を受け、弟子らと共に一年間各地に高僧を訪ね歓待された。
この時五十余体の大小釈尊像を下賜され、末寺に配し、中でも一番立派な像を本尊に南方風の釋王殿建設を発願。
南方僧団移植の本拠とすべく寄付を募ったが、既に雲照も亡く、大檀那林董も他界。第一次世界大戦特需後の不況で寄付も十全に集まらず断念した。大正十三年、震災の明くる年に、比丘興然遷化。釈尊を一途に思う七十六年の生涯だった。
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釋興然① 略伝
釋興然師(一八四九-一九二四)は、混迷する仏教界から一人セイロンに渡航し、日本人として初めて南方上座仏教の比丘となった人である。
興然は、明治仏教界の第一人者であった釋雲照律師の甥にあたり、嘉永二年、現在の島根県出雲市塩冶町に生まれた。十歳のとき雲照の実兄宣明について得度。十三歳で真言宗の初歩の修行である四度加行を修し、十八歳で高野山に登り宗学を学んだ。
十九歳の時明治維新を迎えた興然は、政府当局に建白を重ねていた雲照に随順し、この頃から薫陶を受けていたであろう。明治七年雲照が勧修寺門跡となり、大教院派遣の講師として諸国教導職指南のために布教して歩いた時期にも随侍して講義を聴いた。
明治九年、二十八歳の時には教部省から少講義に任ぜられ、明治十三年、前年の大成会議で制定された真言宗統一の中学林を、雲照が東京に設立した際にも、興然は助手として随った。
明治十五年三十三歳の時、横浜鳥山の中本寺・三会寺に住職する。そしてこの頃既に興然はインド遊学の志を持っていた。翌十六年には本山にインド渡航を願い出ており、十七年には総黌の学費から旅費を捻出することを請願している。
明治十九年、東京に出て目白の新長谷寺に落ち着いた雲照は、インド人からブッダガヤの地が荒廃していることを聞いた。そこで、直ちにインドへ憧憬を寄せる興然をセイロンに派遣する。
興然は、セイロン南部の港町ゴール近郊カタルーワ村のランウエルレー・ヴィハーラで南方仏教の沙弥としてパーリ語の学習と仏道修行を開始。一年余り後にはコロンボのシャム派最大の寺院ウィドヨーダヤ・ピリウエナ・ヴィハーラのヒッカドゥエ・スマンガラ大長老のもとに修学の場を移した。
そして、渡航五年目の明治二十三年六月、遂に興然は、キャンディのシャム派総本山マルワトゥ・ヴィハーラでスマンガラ大長老より具足戒(パーリ律二二七戒)を授けられた。興然グラナタナ比丘四十一歳。ここに日本人で初めて、南方上座仏教の比丘が誕生した。
翌二十四年興然は、セイロン人で後にインドの仏蹟復興をはたすダルマパーラ居士と共にインドのブッダガヤに参詣する。釈尊成道の地は当時既にヒンドゥー教徒が管理していたが、興然とダルパーラはこの地を買収して仏教徒にとって最も神聖なる場として再生することを誓う。
各仏教国からも募金し国際仏教会議を開催するものの、英国政府から仏教徒の支配のために仲介することは出来ないとの回答があり断念した。
明治二十六年、興然は南方仏教の黄色い袈裟を纏い比丘のまま三会寺に帰り、南方僧団移植のために「釈尊正風会」を結成。後に西園寺内閣の外務大臣となる林董が会長となった。
当時一級の知名人、学者、宗教者など八百名が会員となり、数度にわたりセイロンに若い優秀な僧侶を派遣。受戒に要する五人の比丘僧団を組織することを期した。しかし、志を貫くことの難しさに戦争も影響し、二人のみが比丘に留まった。
五十九歳の時当時最も持戒堅固な清僧としてシャム国に招待を受け、弟子らと共に一年間各地に高僧を訪ね歓待された。
この時五十余体の大小釈尊像を下賜され、末寺に配し、中でも一番立派な像を本尊に南方風の釋王殿建設を発願。
南方僧団移植の本拠とすべく寄付を募ったが、既に雲照も亡く、大檀那林董も他界。第一次世界大戦特需後の不況で寄付も十全に集まらず断念した。大正十三年、震災の明くる年に、比丘興然遷化。釈尊を一途に思う七十六年の生涯だった。
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