住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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京都 三千院・寂光院散策2

2007年03月12日 15時57分24秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
三千院参拝

春や秋の観光シーズンには三千院への細い参道は多くの観光客で賑わう。参道の片側には、小さな呂川が流れ、反対側には大原で有名なしば漬けなどの店が並ぶ。細い参道をしばらく登っていくと、突然眼の前が広がり、三千院の石垣が見えてくる。この石垣は、石工で名高い近江坂本の穴太(あのう)の石工(いしく)が積んだものだという。

来た参道をまっすぐにさらにさかのぼると、そこには良忍が声明の道場とした来迎院があり、その先に「音無しの滝」がある。良忍は類い希な美声の持ち主で、声明を唱えると、魚も鳥も静まり、滝の音さえも音を潜めたと言われている。

三千院は、南に呂川(りょせん)、北に律川(りつせん)に挟まれていて、その川の名も声明の音律「呂と律」からのものだ。石段を登ると門前には「三千院門跡」とある。門跡とは、皇室から格式高いお寺の住職としてお入りになる方を言う。

そのはじめは嵯峨大覚寺であった。元々嵯峨天皇の離宮であって、譲位後お住まいになられた。その後寺格を設けて皇族方が出家され門跡として住した。

天台宗三門跡のはじめが三千院(梶井門跡)であった。御殿門をくぐって中に入るとそこには大きな客殿が姿を現す。靴を脱いで中に参内する。大正元年に修繕され、各室の襖には、今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳など当時の京都画壇を代表する画家が桜、蓮池、芦雁といった花鳥を描いた。客殿の東・南側には庭園・聚碧園(しゅうへきえん)が広がる。

三千院は境内すべてが庭園であると言われる。高木の深い緑、低木の濃い緑、そして苔の輝くような緑色。しっとりと落ち着いた緑の万華鏡のような境内が展開する。

聚碧園は、江戸初期の茶人で、宗和流の始祖・金森宗和の作庭と伝わっている。池泉鑑賞式庭園で、東部は、山畔を利用して二段式となっており、南部は、円形と瓢箪型の池泉をむすんだ池庭となっている。

そこから宸殿に向かう。宸殿は大正15年、御所の紫宸殿を模して作られ、正面五間背面八間、中央は板敷きで畳を回り敷きにしてあり、本尊は伝教大師作秘仏薬師如来。他に阿弥陀如来、四天王寺創建時の本尊を模したと言われ、飛鳥白鳳時代の古式が見られる重文・救世観音半跏像(1246年造)が祀られる。

このお堂は、後白河法皇が宮中の仏事として保元2年(1157)に始めた御懺法講(おせんぼうこう)を修するために作られた。これは、法華経を読誦して六根を懺悔して罪障消滅して九品往生を祈る行法で、昭和の再興時から、小さな厨子に安置した後白河法皇像を開扉して始まり閉扉して終わる。雅楽の演奏が添えられ声明と共に奏でられる。毎年5月30日にここ宸殿で行われている。

宸殿東北にある玉座の間には、下村観山作虹の襖絵がある。この虹には7色のはずが一色少ない。赤がない。秋に紅葉の明かりが襖に映ると七色揃う仕掛けだという。宸殿を降り、外から往生極楽院に向かう。北側に有清園がある。石楠花がその季節には赤い鮮やかな色を付ける。

中国南朝宋の詩人謝霊運の詩「山水に清音あり」から名付けたとされる。池泉回遊式庭園で、山畔を利用して三段の滝を配して池に注ぐようにしつらえ、池には亀島鶴島がある。杉苔の絨毯から垂直に檜や杉が伸びている。見事な造形美を表現している。

往生極楽院は、平安時代、真如房尼の建立。29歳の若さで夫高松中納言実衡(さねひら)を亡くした真如房尼は、この往生極楽院(はじめ常行三昧堂と言った)を建立し、90日間休まずひたすら念仏を唱えながら、仏の周りを回る常行三昧の行を行ったといわれる。

常行三昧とは、右廻りに弥陀の回りを行道(歩きつつ)しつつ三昧(心を一つに専念せしめること)する。 歩歩声声念念(ぶぶしょうしょうねんねん・口に念仏を称えながら歩く)しつづけ、いわば陶酔の境地にまで至る。

そんな歴史を持つお堂ゆえに、今の世でも多くの女性を引きつけるのであろうか。因みに、作家の井上靖氏は、「東洋の宝石箱」と称したという。

奥行き四間正面三間の単層入母屋造りの柿(こけら)葺き。天井は山形に板を貼った船底天井。重文。堂内には、国宝阿弥陀三尊像。久安4年(1148)造立。金色のこの弥陀三尊は、信者の臨終に際して極楽浄土から迎えに来られる様子を表現している来迎相。でっぷりとふくよかな優しげな、ありがたいお顔をしている。

阿弥陀如来は丈六仏。194.5センチ。阿弥陀如来の印相は、来迎印で、上品下生。上品上生から下品下生まで、阿弥陀如来の極楽には行者の罪業と修行に応じて九品に区別されていると言われている。本尊背後に小さな2枚の開き戸があり、内部の胎内仏を拝むようになっていたらしい。

脇侍の蓮華をささげる観音菩薩、合掌する勢至菩薩は、ともに正座から少し前に乗り出したような倭坐り(やまとすわり)と言われる珍しいお姿をしている。132センチ。観音菩薩が慈悲心をもって人々の苦しみを救うのに対して、勢至菩薩は、智慧の強い力で迷いの世界にある人々に仏性を開かせ一気に悟りに至らしめると言われる。

往生極楽院はまた壁画が平安時代の作で重文。蓮華文の装飾や千仏図、飛天などが見られる。来迎壁の壁画は、現在は正面に胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅の両曼荼羅が、背面に来迎図が描いてあるが、元は来迎図が正面を向いており、曼荼羅は描かれていなかった。

船底天井、小壁、垂木には5色の極彩色で極楽の花園の画が描かれている。奥州の藤原清衡はこれを見て驚嘆し、わが故郷もこれで飾ろうとしたのが平泉の金色堂であるといわれる。

そして大事なことはこの往生極楽院は、お堂がそのまま須弥壇となっている。だから目の前に仏像がおられる。須弥壇ということは、仏の座に同座しているのと同じ構造になっている。

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