十月十五日、今日はカトマンドゥに飛ぶ日だ。荷物をまとめて外に出ると、朝靄の中、エンジ色の袈裟を身につけた端整な顔立ちのお坊さんに出会った。まるで、時代劇の役者がカツラをかぶらずに登場したような風貌。英字の名刺を差し出された。「Bhikkhu Rewata」(比丘レーワタ)、住所はミャンマーのヤンゴンとある。私と同年配だろうが、法蝋を聞くと既に十年を過ぎていると言うので、その場で礼拝し話し出す。
カトマンドゥから、ジョンというタスマニアで瞑想センターを主宰している中年のオーストラリア人と一緒に巡礼をしてきて、今朝到着したとのこと。そのジョンも三週間前まではヤンゴンの瞑想所で比丘として三ヶ月間瞑想していたという。インドの仏教聖地を回った後には日本にも招待されているということもあり、是非今日はミャンマー寺の建築現場で昼食を招待したいと言うので、十一時過ぎに再会を約した。
ミャンマー寺へ着くと、既に布を敷いた台の上に先ほどのレーワタ比丘が座っている。隣に座らせてもらい、建設中の塔の地鎮祭の写真を拝見する。沢山のお坊さんたちが招かれ、その前で派手な民族衣装を着た人たちが踊りを披露している写真や、ストゥーパの基礎の中心に経本を置き、周りに緑、クリーム、赤、金、銀といった八色のレンガを丸く敷いて儀礼を行っている様子、太い鉄骨の櫓が組まれ、その周りにレンガを巻いてコンクリートを塗っているストゥーパの内部の様子などが写されていた。
その写真に写っている工夫だけでも百人を遙かに超えて二百人を数えようかという凄まじさ。柴田氏によれば、ミャンマー寺では一律で工夫を雇うのではなく、職能に応じて四十、五十、六十ルピーという具合に賃金を設定し雇い入れているのだということであった。その後私たちの前には置ききれないくらい沢山の小皿に盛りつけた料理が運ばれてきた。野菜の炒めたものや野菜と魚の煮物など、ミャンマー料理を堪能した。
食事の後、建築途中の足組を登り、ストゥーパの上部で空洞になった内部をバックにしてレーワタ比丘と私、それにジョンで写真を撮った。その日カトマンドゥに飛ばねばならない私は、そのあとお寺に戻り、二百ルピーをドネーション(寄附)として払い、リキシャとバスを乗り継いでバイラワに向かった。
バイラワの空港は、平屋の小さな建物の前に小学校の校庭ほどのコンクリートが広がっていた。ロビーにはカウンターがあるだけ。出発時刻の二時間も前に到着していることもありロビーには誰もいない。インドで列車に乗るときも私はこの調子で、二時間前には駅に着くように出る習慣がある。その余った時間、周りの人たちの様子や動きを見ているだけで飽きないし、すぐに二時間くらい過ぎてしまった。
しかしこのときばかりは時間をもてあました。なにせ人が居ないのだから。仕方なく、ルンビニでの出来事や見聞したことをメモしたり、これから向かうカトマンドゥの様子をガイドブックで確認したり。そうこうしていると、にわかに一人二人カウンターを出入りし出した。そして五、六人の旅客と共に田舎の駅の改札なみのゲートを通り抜けると、ぽつんと一機。私たち乗客を待つ飛行機は、その目の前にある、なんとも小さなプロペラ機なのであった。新しい飛行機ではあったが、こんな小さなプロペラ機で乗客を乗せて首都カトマンドゥに向かうとは。
まるでトヨタのタウンエースを縦に二つ並べたほどの大きさしかない。いやそれよりも天井は低く狭苦しい。しっかりシートベルトを締めて揺れる機体に運命を預けた。十五時四十五分定刻発。下の景色がわかるほど天候も良くなかったが、それでも雲を眺めている間に一時間ほどで、カトマンドゥーの空港に無事着陸した。
実は、カトマンドゥーの空港はこのときと、この五日ばかり後にインドのバラナシに飛ぶときの二回使用したはずなのだが、まるで記憶にない。自分でもなぜだか分からないが、紀行文を書く身としてはただ申し訳ないと言うより仕方がない。そのかわりと言っては何だが、空港から出てオートリキシャに乗った所の光景は良く覚えていて、金網を張ったカーブした所を走るときの何ともなま暖かい風を浴びたことを記憶している。
途中信号で止まる車の間をスルスルと前に進みつつ、思ったよりも早く、スワヤンブナートという有名なチベット寺院の下あたりまで到着していた。小高い丘の上に四方に目を描いた仏塔が位置する、東京の浅草寺のような賑わいの大寺の仲店入り口でリキシャを降りた。道の両側には食品やら衣料品やらの小さなお店や屋台がひしめいていた。
夕方で暗くなる前に着かなくてはと、誰彼となく目指すお寺の名前を言っては道を尋ね、チベットの色とりどりの小旗のはためく小高い丘を越えて、何とかカトマンドゥでの宿と勝手に決めていたアーナンダ・クティ・ビハールに到着した。坂を下りると幼稚園の庭程度のところに人の背丈より少し大きな仏塔があり、そこから下の方に多くの人が大きな荷物をもって行き交う街道が見渡せた。二階建て二棟の小さなネパール上座仏教の僧院であった。
カルカッタのバンテーより、マハーナーマという名の長老を訪ねよ、と言われていた。マハーナーマ長老はその時この寺の住職さんで、用件を告げると、疲れていると思われたのか、すぐに二階の隅の大きな部屋に案内された。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない部屋であったが、マットのあるベッドが一つあり、何とか静かに寝れそうであった。
温水のシャワーが出るとのことだったので早速汗を流しに行く。大理石の床に広いシャワールーム。三人四人が一緒に浴びれるくらいの広さがある。蛇口をひねる。しかし、水がちょろちょろ出てくるだけで、いつまで経っても温水にならない。物寂しい思いにとらわれながら、結局タオルに水を浸して身体を拭くだけで出てきてしまった。標高千四百メートルのこのあたりでも、昼間は三十度近くなるはずだが、夕方には急に冷え込んでとても寒く感じる。冷たい水を身体にかける気にはなれなかった。
部屋に戻るとノックがして、小さな子供をおぶったせむしの女がミルクティを運んできてくれた。部屋に女性とだけ居ることを禁じている比丘の戒を気遣ってのことだろう。するとそこへ黄色い袈裟をまとった十代の沙弥(見習僧)がやって来て、私の荷物から覗いている文房具やカメラを触っては質問し、聞きもしないのに自分の名前を紙に書いたり、何しに来たのかとしつこく聞いて出て行った。おそらく年長の比丘たちから言われて偵察にでも来たのだろう。
ネパールは、国民の八割以上がヒンドゥー教徒で、残りの数パーセントを仏教、キリスト教などが分け合っている。仏教も、チベット仏教を継承するネワール仏教と言われる人たちと一九三〇年頃からは上座仏教も存在する。日本のように様々な宗教施設が街に混在し、ヒンドゥー教徒も仏教徒も双方の寺にお参りしても何の違和感も感じないという。ネパールの人たちは、顔や気性ばかりか、そうしたところも私たちに似ているようだ。 つづく・・。
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カトマンドゥから、ジョンというタスマニアで瞑想センターを主宰している中年のオーストラリア人と一緒に巡礼をしてきて、今朝到着したとのこと。そのジョンも三週間前まではヤンゴンの瞑想所で比丘として三ヶ月間瞑想していたという。インドの仏教聖地を回った後には日本にも招待されているということもあり、是非今日はミャンマー寺の建築現場で昼食を招待したいと言うので、十一時過ぎに再会を約した。
ミャンマー寺へ着くと、既に布を敷いた台の上に先ほどのレーワタ比丘が座っている。隣に座らせてもらい、建設中の塔の地鎮祭の写真を拝見する。沢山のお坊さんたちが招かれ、その前で派手な民族衣装を着た人たちが踊りを披露している写真や、ストゥーパの基礎の中心に経本を置き、周りに緑、クリーム、赤、金、銀といった八色のレンガを丸く敷いて儀礼を行っている様子、太い鉄骨の櫓が組まれ、その周りにレンガを巻いてコンクリートを塗っているストゥーパの内部の様子などが写されていた。
その写真に写っている工夫だけでも百人を遙かに超えて二百人を数えようかという凄まじさ。柴田氏によれば、ミャンマー寺では一律で工夫を雇うのではなく、職能に応じて四十、五十、六十ルピーという具合に賃金を設定し雇い入れているのだということであった。その後私たちの前には置ききれないくらい沢山の小皿に盛りつけた料理が運ばれてきた。野菜の炒めたものや野菜と魚の煮物など、ミャンマー料理を堪能した。
食事の後、建築途中の足組を登り、ストゥーパの上部で空洞になった内部をバックにしてレーワタ比丘と私、それにジョンで写真を撮った。その日カトマンドゥに飛ばねばならない私は、そのあとお寺に戻り、二百ルピーをドネーション(寄附)として払い、リキシャとバスを乗り継いでバイラワに向かった。
バイラワの空港は、平屋の小さな建物の前に小学校の校庭ほどのコンクリートが広がっていた。ロビーにはカウンターがあるだけ。出発時刻の二時間も前に到着していることもありロビーには誰もいない。インドで列車に乗るときも私はこの調子で、二時間前には駅に着くように出る習慣がある。その余った時間、周りの人たちの様子や動きを見ているだけで飽きないし、すぐに二時間くらい過ぎてしまった。
しかしこのときばかりは時間をもてあました。なにせ人が居ないのだから。仕方なく、ルンビニでの出来事や見聞したことをメモしたり、これから向かうカトマンドゥの様子をガイドブックで確認したり。そうこうしていると、にわかに一人二人カウンターを出入りし出した。そして五、六人の旅客と共に田舎の駅の改札なみのゲートを通り抜けると、ぽつんと一機。私たち乗客を待つ飛行機は、その目の前にある、なんとも小さなプロペラ機なのであった。新しい飛行機ではあったが、こんな小さなプロペラ機で乗客を乗せて首都カトマンドゥに向かうとは。
まるでトヨタのタウンエースを縦に二つ並べたほどの大きさしかない。いやそれよりも天井は低く狭苦しい。しっかりシートベルトを締めて揺れる機体に運命を預けた。十五時四十五分定刻発。下の景色がわかるほど天候も良くなかったが、それでも雲を眺めている間に一時間ほどで、カトマンドゥーの空港に無事着陸した。
実は、カトマンドゥーの空港はこのときと、この五日ばかり後にインドのバラナシに飛ぶときの二回使用したはずなのだが、まるで記憶にない。自分でもなぜだか分からないが、紀行文を書く身としてはただ申し訳ないと言うより仕方がない。そのかわりと言っては何だが、空港から出てオートリキシャに乗った所の光景は良く覚えていて、金網を張ったカーブした所を走るときの何ともなま暖かい風を浴びたことを記憶している。
途中信号で止まる車の間をスルスルと前に進みつつ、思ったよりも早く、スワヤンブナートという有名なチベット寺院の下あたりまで到着していた。小高い丘の上に四方に目を描いた仏塔が位置する、東京の浅草寺のような賑わいの大寺の仲店入り口でリキシャを降りた。道の両側には食品やら衣料品やらの小さなお店や屋台がひしめいていた。
夕方で暗くなる前に着かなくてはと、誰彼となく目指すお寺の名前を言っては道を尋ね、チベットの色とりどりの小旗のはためく小高い丘を越えて、何とかカトマンドゥでの宿と勝手に決めていたアーナンダ・クティ・ビハールに到着した。坂を下りると幼稚園の庭程度のところに人の背丈より少し大きな仏塔があり、そこから下の方に多くの人が大きな荷物をもって行き交う街道が見渡せた。二階建て二棟の小さなネパール上座仏教の僧院であった。
カルカッタのバンテーより、マハーナーマという名の長老を訪ねよ、と言われていた。マハーナーマ長老はその時この寺の住職さんで、用件を告げると、疲れていると思われたのか、すぐに二階の隅の大きな部屋に案内された。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない部屋であったが、マットのあるベッドが一つあり、何とか静かに寝れそうであった。
温水のシャワーが出るとのことだったので早速汗を流しに行く。大理石の床に広いシャワールーム。三人四人が一緒に浴びれるくらいの広さがある。蛇口をひねる。しかし、水がちょろちょろ出てくるだけで、いつまで経っても温水にならない。物寂しい思いにとらわれながら、結局タオルに水を浸して身体を拭くだけで出てきてしまった。標高千四百メートルのこのあたりでも、昼間は三十度近くなるはずだが、夕方には急に冷え込んでとても寒く感じる。冷たい水を身体にかける気にはなれなかった。
部屋に戻るとノックがして、小さな子供をおぶったせむしの女がミルクティを運んできてくれた。部屋に女性とだけ居ることを禁じている比丘の戒を気遣ってのことだろう。するとそこへ黄色い袈裟をまとった十代の沙弥(見習僧)がやって来て、私の荷物から覗いている文房具やカメラを触っては質問し、聞きもしないのに自分の名前を紙に書いたり、何しに来たのかとしつこく聞いて出て行った。おそらく年長の比丘たちから言われて偵察にでも来たのだろう。
ネパールは、国民の八割以上がヒンドゥー教徒で、残りの数パーセントを仏教、キリスト教などが分け合っている。仏教も、チベット仏教を継承するネワール仏教と言われる人たちと一九三〇年頃からは上座仏教も存在する。日本のように様々な宗教施設が街に混在し、ヒンドゥー教徒も仏教徒も双方の寺にお参りしても何の違和感も感じないという。ネパールの人たちは、顔や気性ばかりか、そうしたところも私たちに似ているようだ。 つづく・・。
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何時も興味深いお話有り難うございます。ネパールは仏教徒が少ないのですね!もう少し多いのかと思っていました。又殺されるお坊さんが居る程物騒なのですか?驚きです。
労働者に仕事をやる気が無いのですか?確か欧州の産業革命時に労働者が資本家の思う様に働く意欲が無く、資本家はあの手この手で現在の勤労精神を労働者階層に教育(強制)しなければならなかったと言う事が色々な本に書かれていますが、ネパールの一般人は産業革命以前の人間的精神を未だ持っているのでしょうか?興味深い事ばかりですね。
どうりで内容もハイレベル!
またよろしくお願い致します。
この所朝晩涼しくなりましたが、お体調崩さないでください。檀家の件で近い内にお伺いしたいのですが。宜しくお願いします。
ネパールの人たちもインドの人たちも一緒ですが、とてもおおらかに生きています。特に田舎の人たちは。お金を稼ぐためにあくせくする生活ではない。イヤ、なかったと言った方がいいかもしれませんが、都市だけでなく、田舎の町にもコンピュータースクールの看板があったりしますから、徐々に変わりつつあるのでしょう。もちろん盗賊のような人たちもいて治安が不安なところもありますので、大金もって何かする人は気をつけないといけません。夫れはどこの国でも一緒なのかもしれませんが。
どうぞ、奥様、お大事に。
どうぞ、ご活躍下さい。
電話をいただけたらありがたいです。出る用事も多いものですから。
四国は、歩くとクルマでは見えないものが見えます。人とも出会えるし、自然とも。
札所もすばらしい方もあります。いろいろ教えてくれるのも四国のありがたさだと思います。