ゲストハウスに荷物を置いて、トイレバスの位置を確認していると子供に呼ばれた。ついて行くと、お寺の裏でヴィマラナンダ長老が座って食事をしている。知らぬ間に十一時を過ぎていたのだ。私の座るところを指さすので、座りご馳走になる。
野菜のカレーにチャパティ。チャパティは日本のインド料理屋で定番のナンよりも庶民的なインドパンで、精白していない小麦粉をこねて丸い鉄板で薄く焼いたもの。それを右手で小さく切ってカレーにつけて食べる。目の前で焼いてくれるので焼きたてのおいしいチャパティを沢山いただいた。
正午を過ぎると固形物を口にしない南方の僧侶にとって、一日の一番大切な行事を終えて、しばし部屋で横になり、二時過ぎにルンビニーの広大な平原へ向かった。ルンビニーはサールナートなどの遺跡と違いまだ未整備の為、柵やゲートなどもなく出入りが自由なのは結構だが、ガイドなしで一人行くときは何の手がかりもなく心許ない。カルカッタを出る前にバンテーから手渡された一枚の絵はがきをたよりに歩く。
ゲストハウスを北に出て少し行くと道の左側に沢山の看板があった。僧院地区に用地を取得して建設中のお寺の方角を示す看板だった。韓国やミャンマー、ベトナムのお寺の看板に混じって、薄いブルーに茶色の文字で、「BHARATIA SANGHAーRAMA The Bengal Buddhist Association」という看板があった。
両側に草原が広がるだけの、ひと気のないその道を北にまっすぐ行くと、蓮の形をした皿に灯された燈火が揺れていた。そこが僧院地区の入り口で、西側が大乗仏教のお寺、東が南方上座仏教のお寺に割り当てられ、その中央には水の干上がった水路が延びていた。
マスタープランが出来てから、その時すでに二十年は経過しているはずであったが、未だに草ボウボウの原野の中にレンガが点在しているようなものに思われた。私はそれから数人の人夫が立ち働く姿の見える西側の僧院地区へ向かった。そこはベトナムのお寺の建設現場であった。中に入っていくと、すぐに青いポロシャツに長靴を履いたベトナム人僧ウィンギュさんが出迎えてくれた。
百二十メートル四方の大きな土地にゲストハウスを建築中で、その後本堂と塔、寺務所などを作る予定だという。建設途中の仮寺務所に案内され、ベトナムのお茶とビスケットをご馳走してくれた。
ベトナムの仏教は、中国経由の禅仏教が主流で、他の東南アジアの仏教とは異なる。紀元前から一千年程中国領であったため道教儒教の要素も混淆している。共産党支配下で衰退したが、一九八六年以降改革開放路線がスタートしてからは仏僧も増加して今では、一万八千人の大乗僧に加え七千人もの上座仏教僧もいるという。ベトナム戦争当時から積極的に平和活動をしてノーベル平和賞の候補になる世界的にも有名な「行動する僧侶」もあり、社会的な地位も高いようだ。
次に向かったのは總教という日本の新興宗教が造っているお寺だった。柴田さんという日本人の方が七ヶ月前から駐在しており、何もない原野に一からお寺を建てる苦労話をひとしきりうかがうことになった。總教は茨城県に本部があるということで、それまで聞いたこともなく日本でこの方とお会いしても話すことはないだろうと思えたが、このときはお互いに久しぶりに会う日本人でもあり、すぐにうち解けて話が弾んだ。
三ヶ月前に電気が来て電話は一月前に入ったばかりとのこと。敷地の柵を作り出して二年半。一つ一つ建物を造り、寺務所が二棟出来たところで、そのときはお寺の本堂を建設中だった。夜が特に物騒なので寺務所の周りには別に三メートル程の柵をめぐらしていた。職人には一日百ルピー(約一五〇円)、人夫には五十ルピーとのことだったが、韓国のお寺が来てからは何もかにも値上がりしてしまったので困っているとこぼしていた。雨期が過ぎてスッポンが出たといって、水たまりに囲って入れたスッポンを見せてくれた。他の地区だがミカサホテルの現場では蛇に噛まれて死者も出たという。
この後日本からノータックスで運んだというトヨタに乗せてもらい日本山妙法寺に案内してもらう。途中韓国のお寺の前を通る。かなり大勢の人夫を使い建設を急いでいる様子。二人の韓国人僧が居るとのことだった。僧院地区を抜けて、研究所やホテルの建つあたりに来ると、草の間に煉瓦造りの大きな土管を重ねたような建物が見えた。日本の新興宗教「霊友会」が出資して建てたルンビニー国際研究所兼ホテルだそうだ。
柴田氏曰く、はじめに霊友会から一億もの寄附があったが何もしない間にルンビニ開発トラストの幹部がその大半を食べてしまったことがわかり、完成後直ちに寄附する予定だったが十年間は霊友会が管理することになったらしい、各部屋には高価な電気製品もあり、それらを持ち出されるのを恐れてとのことだ。
またその先には法華ホテルがひっそりと煉瓦の塀で覆われていた。すでに開業しているはずだが、聖地地区で発掘をしている全日本仏教会の関係者や日本の研究者が来たときくらいしか宿泊者もなく閑散としている。日本人発掘団の一人がドラックを鞄に入れられて警察に捕まりひどい目に遭う事件があって、その後地元警官と現地人の金目当てのトリックと判明し、日本人技術者もしばらくは来ないという。
日本山妙法寺は、熊本県出身の藤井日達師が大正七年に中国の遼陽に造ったお寺を先駆けに日本国内外に七十程の白い仏舎利塔を造り世界平和を訴える日蓮宗系のお寺の総称。インドではあのガンジーさんと出会い、ともに非暴力主義を語り確認し合ったと言われ、それがためにインドではかなり優遇されている組織と以前から聞いていた。ラージギールやヴァイシャーリー、ダージリンなどに大きな世界平和パゴタという仏舎利塔を建立している。
マスタープラン外の土地で建設を進める妙法寺では、ここへ来て三年、その前にはラージギールに六年いたという生天目豊師が迎えてくれた。白い上下の服を着てニコニコと話をされる。既に本堂と宿泊施設ができあがり塔の建設に入っている。二百メートル四方の土地だからかなり広く感じる。本堂に中国の化粧瓦を用いたが土地に合わないせいか、もう既に風化してきていると嘆いていた。
その時も何人かの人夫が働いていたが、彼らに仕事をさせる大変さを話していた。仕事をするとはどういう事か、そこから教えなければいい仕事は出来ないなどと。勤行は朝夕五時から団扇太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」と一時間半程唱えるとのこと、厳しい気候の中、生半可なことで真似の出来ることではない。今ではインド国内には十人しか坊さんがおらず、みんな快適なアメリカやヨーロッパに移り住んでいるとのことだった。
その後ベトナムのウィンギュさんもオートバイに乗ってやってきて、英語とヒンディ語混じりでひとしきり話をしていると、早くも日が傾きかけてきた。そのとき外に出てみんなで撮った写真が残っている。一人合掌し艶のいい笑顔で真ん中に写っている生天目師だが、実はこの一年後に賊に入られ殺されてしまったのを、ちょうど滞在していたカルカッタの新聞で知った。寺務所を二重に柵で囲った柴田氏はお元気にその後日本に戻り活躍されているようなのだが、気の毒なことである。
その晩はむしろを敷き詰めた床にスポンジだけの布団を敷いて、持参したシーツを身体に巻いて眠りについた。
十月十四日。この日も一日歩いて各お寺を回る。八十メートル四方と百六十メートル四方の隣接する土地を取得しているミャンマー寺では、坊さんがおらず全てを政府の役人が指揮を執っていた。簡易寺務所を作り、ミャンマー様式の細く上に伸びた円錐形の大きな塔を建設中であった。
そして、その隣の水路側に肝心のベンガル仏教会が取得した土地があった。看板一つ。何ともさびしそうに立っていた。短い草に覆われて、いつになったら人で賑わうことになるのか。インド国内でさえ他の地方に住みたがらないベンガルのお坊さんがこの地に住まうことさえ無理なのに、お寺を造ることなど出来るのかと人ごとのように感じていた。
加えて、その日の朝、ヴィマラナンダ長老に会ったとき、「仏教徒の居ないこの地にそんなに沢山のお寺を建ててどうなるのだ」と言われた言葉も私の脳裏に重くのしかかってきた。つづく
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野菜のカレーにチャパティ。チャパティは日本のインド料理屋で定番のナンよりも庶民的なインドパンで、精白していない小麦粉をこねて丸い鉄板で薄く焼いたもの。それを右手で小さく切ってカレーにつけて食べる。目の前で焼いてくれるので焼きたてのおいしいチャパティを沢山いただいた。
正午を過ぎると固形物を口にしない南方の僧侶にとって、一日の一番大切な行事を終えて、しばし部屋で横になり、二時過ぎにルンビニーの広大な平原へ向かった。ルンビニーはサールナートなどの遺跡と違いまだ未整備の為、柵やゲートなどもなく出入りが自由なのは結構だが、ガイドなしで一人行くときは何の手がかりもなく心許ない。カルカッタを出る前にバンテーから手渡された一枚の絵はがきをたよりに歩く。
ゲストハウスを北に出て少し行くと道の左側に沢山の看板があった。僧院地区に用地を取得して建設中のお寺の方角を示す看板だった。韓国やミャンマー、ベトナムのお寺の看板に混じって、薄いブルーに茶色の文字で、「BHARATIA SANGHAーRAMA The Bengal Buddhist Association」という看板があった。
両側に草原が広がるだけの、ひと気のないその道を北にまっすぐ行くと、蓮の形をした皿に灯された燈火が揺れていた。そこが僧院地区の入り口で、西側が大乗仏教のお寺、東が南方上座仏教のお寺に割り当てられ、その中央には水の干上がった水路が延びていた。
マスタープランが出来てから、その時すでに二十年は経過しているはずであったが、未だに草ボウボウの原野の中にレンガが点在しているようなものに思われた。私はそれから数人の人夫が立ち働く姿の見える西側の僧院地区へ向かった。そこはベトナムのお寺の建設現場であった。中に入っていくと、すぐに青いポロシャツに長靴を履いたベトナム人僧ウィンギュさんが出迎えてくれた。
百二十メートル四方の大きな土地にゲストハウスを建築中で、その後本堂と塔、寺務所などを作る予定だという。建設途中の仮寺務所に案内され、ベトナムのお茶とビスケットをご馳走してくれた。
ベトナムの仏教は、中国経由の禅仏教が主流で、他の東南アジアの仏教とは異なる。紀元前から一千年程中国領であったため道教儒教の要素も混淆している。共産党支配下で衰退したが、一九八六年以降改革開放路線がスタートしてからは仏僧も増加して今では、一万八千人の大乗僧に加え七千人もの上座仏教僧もいるという。ベトナム戦争当時から積極的に平和活動をしてノーベル平和賞の候補になる世界的にも有名な「行動する僧侶」もあり、社会的な地位も高いようだ。
次に向かったのは總教という日本の新興宗教が造っているお寺だった。柴田さんという日本人の方が七ヶ月前から駐在しており、何もない原野に一からお寺を建てる苦労話をひとしきりうかがうことになった。總教は茨城県に本部があるということで、それまで聞いたこともなく日本でこの方とお会いしても話すことはないだろうと思えたが、このときはお互いに久しぶりに会う日本人でもあり、すぐにうち解けて話が弾んだ。
三ヶ月前に電気が来て電話は一月前に入ったばかりとのこと。敷地の柵を作り出して二年半。一つ一つ建物を造り、寺務所が二棟出来たところで、そのときはお寺の本堂を建設中だった。夜が特に物騒なので寺務所の周りには別に三メートル程の柵をめぐらしていた。職人には一日百ルピー(約一五〇円)、人夫には五十ルピーとのことだったが、韓国のお寺が来てからは何もかにも値上がりしてしまったので困っているとこぼしていた。雨期が過ぎてスッポンが出たといって、水たまりに囲って入れたスッポンを見せてくれた。他の地区だがミカサホテルの現場では蛇に噛まれて死者も出たという。
この後日本からノータックスで運んだというトヨタに乗せてもらい日本山妙法寺に案内してもらう。途中韓国のお寺の前を通る。かなり大勢の人夫を使い建設を急いでいる様子。二人の韓国人僧が居るとのことだった。僧院地区を抜けて、研究所やホテルの建つあたりに来ると、草の間に煉瓦造りの大きな土管を重ねたような建物が見えた。日本の新興宗教「霊友会」が出資して建てたルンビニー国際研究所兼ホテルだそうだ。
柴田氏曰く、はじめに霊友会から一億もの寄附があったが何もしない間にルンビニ開発トラストの幹部がその大半を食べてしまったことがわかり、完成後直ちに寄附する予定だったが十年間は霊友会が管理することになったらしい、各部屋には高価な電気製品もあり、それらを持ち出されるのを恐れてとのことだ。
またその先には法華ホテルがひっそりと煉瓦の塀で覆われていた。すでに開業しているはずだが、聖地地区で発掘をしている全日本仏教会の関係者や日本の研究者が来たときくらいしか宿泊者もなく閑散としている。日本人発掘団の一人がドラックを鞄に入れられて警察に捕まりひどい目に遭う事件があって、その後地元警官と現地人の金目当てのトリックと判明し、日本人技術者もしばらくは来ないという。
日本山妙法寺は、熊本県出身の藤井日達師が大正七年に中国の遼陽に造ったお寺を先駆けに日本国内外に七十程の白い仏舎利塔を造り世界平和を訴える日蓮宗系のお寺の総称。インドではあのガンジーさんと出会い、ともに非暴力主義を語り確認し合ったと言われ、それがためにインドではかなり優遇されている組織と以前から聞いていた。ラージギールやヴァイシャーリー、ダージリンなどに大きな世界平和パゴタという仏舎利塔を建立している。
マスタープラン外の土地で建設を進める妙法寺では、ここへ来て三年、その前にはラージギールに六年いたという生天目豊師が迎えてくれた。白い上下の服を着てニコニコと話をされる。既に本堂と宿泊施設ができあがり塔の建設に入っている。二百メートル四方の土地だからかなり広く感じる。本堂に中国の化粧瓦を用いたが土地に合わないせいか、もう既に風化してきていると嘆いていた。
その時も何人かの人夫が働いていたが、彼らに仕事をさせる大変さを話していた。仕事をするとはどういう事か、そこから教えなければいい仕事は出来ないなどと。勤行は朝夕五時から団扇太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」と一時間半程唱えるとのこと、厳しい気候の中、生半可なことで真似の出来ることではない。今ではインド国内には十人しか坊さんがおらず、みんな快適なアメリカやヨーロッパに移り住んでいるとのことだった。
その後ベトナムのウィンギュさんもオートバイに乗ってやってきて、英語とヒンディ語混じりでひとしきり話をしていると、早くも日が傾きかけてきた。そのとき外に出てみんなで撮った写真が残っている。一人合掌し艶のいい笑顔で真ん中に写っている生天目師だが、実はこの一年後に賊に入られ殺されてしまったのを、ちょうど滞在していたカルカッタの新聞で知った。寺務所を二重に柵で囲った柴田氏はお元気にその後日本に戻り活躍されているようなのだが、気の毒なことである。
その晩はむしろを敷き詰めた床にスポンジだけの布団を敷いて、持参したシーツを身体に巻いて眠りについた。
十月十四日。この日も一日歩いて各お寺を回る。八十メートル四方と百六十メートル四方の隣接する土地を取得しているミャンマー寺では、坊さんがおらず全てを政府の役人が指揮を執っていた。簡易寺務所を作り、ミャンマー様式の細く上に伸びた円錐形の大きな塔を建設中であった。
そして、その隣の水路側に肝心のベンガル仏教会が取得した土地があった。看板一つ。何ともさびしそうに立っていた。短い草に覆われて、いつになったら人で賑わうことになるのか。インド国内でさえ他の地方に住みたがらないベンガルのお坊さんがこの地に住まうことさえ無理なのに、お寺を造ることなど出来るのかと人ごとのように感じていた。
加えて、その日の朝、ヴィマラナンダ長老に会ったとき、「仏教徒の居ないこの地にそんなに沢山のお寺を建ててどうなるのだ」と言われた言葉も私の脳裏に重くのしかかってきた。つづく
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四国遍路は歩く瞑想と思っております。
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