今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきであろう。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えられている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその効果、力があると言えるのではないか。心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈すべきなのであろう。
ただ真言を唱えても苦しみに対処できない。周りのものを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という事物の真のありようを、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのであろう。空なるものの見方を理解するためにはその基礎となる釈迦の教説も必要であろう。真言だけに功力があるわけではない。心経に網羅された法を一つ一つ吟味し読誦するために心経の本文がある。
ただ、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼だと解釈すると一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのかもしれない。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、最終的に完全に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観音菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないかとも思える。
観音菩薩の境地に至るための大乗の教えと修行を通して、その基盤には仏陀の教説があることを考えれば、当然のことながら凡夫に過ぎない我々はその基本から歩み出さねばならない。仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。それも知らずに単に真言を唱えるだけでよいとするのは余りにも乱暴な説き方であろう。
最後に説かれる真言が最上の修行とされることによって、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言える。結果的に鎌倉新仏教の一部は唱えるだけでよいと説かれるようになった。これだけでよいと説く仏教は本来のものではない。
心経は、仏教徒の物の見方、考え方、歩み方を指導し、悟りへ疾くつとめよと、早く悟れと奨励する教えではないかと私は考えている。煩悩を滅するためには少しずつ順序立てて滅するために多くの段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。
この身体また形あるものがどのように生じ、どのように存在しているのかと探求すれば、それ自身で生まれ出たわけでもなく、そのものだけで存在しているのでもない空なるものと発見する。周りの存在のあり方を観察すればそれはみな他に依存した空なるものだと気づく。つまり、この身体や形あるものの究極のあり方は空そのものであり、空だからこそすべてのものは存在することができる。
釈迦の根本教説である五蘊十二処十八界十二因縁四諦の教えが登場するが、これらは仏教徒なら誰もが理解すべき仏教的な物の見方を教えている。五蘊は、私とは何であるか、ということだ。十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。
十二因縁は、刺激に反応し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し人生とは何かを明らかにし、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。四諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。
そして心経では、それらも空という究極のもののあり方を直接的に体験している心には存在しないと述べるに過ぎない。それなのに、通俗的な解説には必ずといってこのくだりを、お釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨しているとする説き方が横行した。
こうして心経は仏陀の教説を否定し、あたかも大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為にかえって日本仏教から仏教の根幹たる教えが失われたのではないか。
心経は観音菩薩の境地を述べたものに過ぎない。凡夫である我々は、まず、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び、そして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力せよ、そこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し督励した教えが、般若心経なのであろう。このように私は思い受持したいと思っている。
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ただ真言を唱えても苦しみに対処できない。周りのものを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という事物の真のありようを、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのであろう。空なるものの見方を理解するためにはその基礎となる釈迦の教説も必要であろう。真言だけに功力があるわけではない。心経に網羅された法を一つ一つ吟味し読誦するために心経の本文がある。
ただ、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼だと解釈すると一字一句解説するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのかもしれない。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、最終的に完全に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観音菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないかとも思える。
観音菩薩の境地に至るための大乗の教えと修行を通して、その基盤には仏陀の教説があることを考えれば、当然のことながら凡夫に過ぎない我々はその基本から歩み出さねばならない。仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。それも知らずに単に真言を唱えるだけでよいとするのは余りにも乱暴な説き方であろう。
最後に説かれる真言が最上の修行とされることによって、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言える。結果的に鎌倉新仏教の一部は唱えるだけでよいと説かれるようになった。これだけでよいと説く仏教は本来のものではない。
心経は、仏教徒の物の見方、考え方、歩み方を指導し、悟りへ疾くつとめよと、早く悟れと奨励する教えではないかと私は考えている。煩悩を滅するためには少しずつ順序立てて滅するために多くの段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。
この身体また形あるものがどのように生じ、どのように存在しているのかと探求すれば、それ自身で生まれ出たわけでもなく、そのものだけで存在しているのでもない空なるものと発見する。周りの存在のあり方を観察すればそれはみな他に依存した空なるものだと気づく。つまり、この身体や形あるものの究極のあり方は空そのものであり、空だからこそすべてのものは存在することができる。
釈迦の根本教説である五蘊十二処十八界十二因縁四諦の教えが登場するが、これらは仏教徒なら誰もが理解すべき仏教的な物の見方を教えている。五蘊は、私とは何であるか、ということだ。十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。
十二因縁は、刺激に反応し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し人生とは何かを明らかにし、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。四諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。
そして心経では、それらも空という究極のもののあり方を直接的に体験している心には存在しないと述べるに過ぎない。それなのに、通俗的な解説には必ずといってこのくだりを、お釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨しているとする説き方が横行した。
こうして心経は仏陀の教説を否定し、あたかも大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為にかえって日本仏教から仏教の根幹たる教えが失われたのではないか。
心経は観音菩薩の境地を述べたものに過ぎない。凡夫である我々は、まず、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び、そして空を体得しつつ、悟りを人生の最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力せよ、そこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し督励した教えが、般若心経なのであろう。このように私は思い受持したいと思っている。
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さて、今の日本仏教についてですが、大方『念仏・お題目を唱えれば救われる』、又は『信じれば救われる』みたいな宗派が圧倒的に多い様に思います。下手をすると、日蓮正宗系の様な他の信仰を攻撃してまで、自分達の教義の正当性を訴える宗派が居たりする。果たしてこれが釈尊の言う仏教だろうか?私は『否』と答えます。釈尊が日本の今の仏教の現状を御覧に為られたら、きっと『私の思っているのはこんなものじゃない』と言うに違いないと思います。仏教は自ら考えて行動するのが本旨の筈。しかし、現状は、思考停止状態。『□□経こそが正しい』やら、『○○経が正しい』やら、『△△経こそが正しい』とか、自分達の教義の正当性を矢鱈に主張する。私からすれば、『そんな下らない議論する暇があるなら、自分なりの方法で民を救ったらどうなんだ?人の事云々言ってる場合かね?』と言いたくなります。
経文を過信するのは、思考停止と同じ事。お経を大事にするのは良いのですが、盲信するのは仏教徒の態度ではないと私は思います。ロボットみたいな人間を釈尊は望んでない。自発的に考えて行動する人間を釈尊は望んでいる筈です。一神教の様な教義を説いている仏教宗派は、見た目が仏教なだけで、仏教でない。本当に仏教徒なら、『○○経だけが正しい』なんて言わない。むしろ、経の正邪なんてどうでも良い話で、様々なお経を参考に、如何に自他共にわれるかを真剣に考え、試行錯誤を繰り返すのが仏教徒の姿勢なのではないかと私は思います。自分の頭で考え、行動しないのは、仏教徒の姿勢ではないと思います。
仏教徒の姿勢とは何たるかを改めて見直す時期が来ていると私は感じています。
仏教に盲信はありません。自ら知り、理解し実践するものです。
お経も一つだけを信じるのではなく、様々なお経から総合して考えていく必要があるのではないかと思っています。
この2550年ほどの歩みをすべて総合していく姿勢こそ今求められているように思います。
私は宮坂ユウ洪さんの解説が結構良いように思ってます。
般若心経も、法華経も、阿弥陀経も、すべて仏様の教え。
何一つ、捨てるものは、無い。
それが結構に思います。
再見!
きちんといろいろな立場から説かれているサイトをお教え下さり、ありがとうございます。
基本的な私の立場は、お釈迦様の教説を否定するとか、大乗小乗と分立させて大乗を勝れたものと判断されることはもうやめた方がよいと思っております。
大乗が勝れている、お釈迦様の教説がどうのと言うのは、そのレベルまで到達されてはじめて言えることだろうと思うからです。
たとえば、大乗が仏になれる教えと言っても、誰がそれを成し遂げたのか。その経典を書かれた人が本当にその境地に達していたのかも分からないからです。
お教え下さったサイトの内容も、同様に考えるといかがなものかとしか言えません。