住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

改訂 あるべきようは2 (公民館でのお話草稿) 

2005年09月06日 07時14分25秒 | 仏教に関する様々なお話
そこで、皆さんにお聞きしますが、この中にお坊さんになりたい人は居ますか。おられませんか。ですが、皆さん無くなるときには戒名をもらいますよね。戒名とはなんだかご存知ですか。戒名は、私の全雄という名前と同じ出家得度したときにもらう仏教名です。ですから、皆さん亡くなるときにはみんな仏教に入門して引導を渡されて来世に行く。

ですけど、本当は、その時に少し知識があるととっても引導を受けやすい。色々お葬式のとき導師はものを申すわけですが、そのことの意味を本当はきちんと分かっていた方が良い。来世に旅立つときに導師がどんなことを皆さんに託すのか、そんなことの意味するところを知っていて欲しいそんな気持ちがあります。

ですから、國分寺では仏教懇話会というのを4年ばかり前から開いて仏教全般のことをお話しして皆さんに聞いてもらっています。私が毎度くどくどと話すわけですから、聞いている皆さんにとってはあんまり楽しいことはないのですけど、それでも来てくださる。皆さんが私に対して慈悲を垂れてくださって話を聞いてくださっているのではないかとさえ思ったりしています。

それはともかくとして、皆さんお寺というと葬式法事、お墓があって供養供養と言う所だ、と思っているのではないですか。ですが、私は、生きている皆さんが元気で幸せで悩みなく安心して暮らしてくださることが本当の供養だと思っています。

そう言うとひょっとして、おやっと思われる人もあるかもしれません。おいおい、この坊さん大丈夫かよと。

それでは、ところで、この世の中で最もよく供養ができた方は誰だと思われますか。まあ、こんな、人が考えない馬鹿なことを私はよく考えているのです。皆さんは誰だと思いますか。うちの死んだおばあさんは良くしていたがなぁ、という方もあるかもしれませんが。

こんなことは、どうでもいいことのようですが、私は、それはやっぱりお釈迦様をおいてないと思っています。これだけ2500年もの長きにわたって今もなお世界の人に幸せをもたらしている方はいない訳です。神様方でさえ教えを乞いに来た、生きとし生けるもの全てがお釈迦様の教えに酔いしれて説法を聞きに来た。

亡くなった人たちだって、お釈迦様のお声を耳にしただけで、天界に昇天できるのではないかとさえ思います。そのお釈迦様のなさったことが最高の供養だと思えば、私たちのするべき事がはっきりしてくる。

ただ、お彼岸だからと言ってお墓に行って花をかえ、線香を立てて手を合わせる。それも良いが、それだけではいけないということが分かります。それが仏教だと思ってもらったらとんでもない宝の持ち腐れだと言わざるを得ない。

私たち自身が本当に心からの幸せ、何のわだかまりもない、誰にも頼らない、何もなくてもこみ上げる充実感がある。そんな心を養うことこそが私たちにとって必要な事なのであって、それはそのままご先祖方がお慶びになることだろうと、私は思うのです。そして、そういう心、ご先祖様方が喜んでくださる心を養うためにこそ法事やら様々な仏事があるのではないかと思います。

それで、今日の本題に入ります。ここに用意してありますプリントを見ていただきますと、これは、大法輪という昭和9年から発行している国民的仏教雑誌です。宗派にとらわれない伝統仏教界の雑誌でとても権威あるものです。そこにこれまで度々私の原稿を掲載してくださっていまして、この中から今日は平成14年の10月号から「しあわせということ」というのを勉強してみようと思うのです。

この文章でいう幸せとは何かというのは順を追って話していくとしまして、この文章のベースとして、吉祥経というパーリ語のタイ、スリランカ、ミャンマーなど南方の仏教でよくとなえる経典を解説しています。南方の仏教国では、日本の般若心経のように親しまれているお経です。私もインドいる頃は暗唱していたのですが、もう忘れてしまいましたので少し経典を見ながら原文で唱えてみましょう。

パーリ語でマンガラスッタと言います。エーバンメースタン、エーカンサマヤーバカバー、サーバッティヤンビハラティ・・・・・・・・・・・・・・。つづく
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