住職のひとりごと

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四無量心と十善に生きる

2022年01月10日 06時46分01秒 | 仏教に関する様々なお話
四無量心と十善に生きる


穏やかな正月を過ごされ、すでに日常に戻られたであろうか。今年も一年心身ともに健康でありたいものだと誰もが願うことであろう。今國分寺の仁王門横の掲示板には、仏陀の写真にヒンディ語の格言が入り、それを翻訳し「身体のための一番よい治療は、頭静まり平穏な心である。そして、その平穏な心のために最もよい治療は、誰の言葉であっても、胸に重く受けとらないことです。」と印刷した小ポスターを掲示している。

これは、『sacci baten(サッチー・バーテーン)』真実の言葉という意味の名前で、フェイスブックやインスタグラムに参加して、ヒンディ語で古今のインドの格言などを投稿しているグループが昨年の10月1日にアップした内容である。一昨年から時々翻訳しては掲示しているもので、過去に何度か投稿されたものに日本語訳を書いてコメント欄に書き込んだことはあるが、まさか彼らは自分たちの作ったものがこうして日本語になって紹介されているとも思わないであろう。

ところで、身体のための最良の治療は、「頭静まり平穏な心」と訳したが、これは原文ではシャーント・ディマーグとあり、直訳すると「平和な頭」となる。あなたは頭がいい、ということを「アープカ・ディマーグ・アッチャー・ヘイ」などいう具合に使うので、「ディマーグ」という単語は会話でもよく登場する言葉なのだが、訳としては、「脳、頭脳、思考力のほかに高慢、傲慢、慢心」とある。だから、シャーント・ディマーグで、頭静まり、高慢や慢心のない、穏やかで平安な、平穏なる心となるであろう。

そして、その平穏なる心のための最良の治療は、「誰の言葉も胸に受け取らない」というのが直訳で、この「胸」の原語は、「フリーダヤ」とある。これは般若心経という経題の中の心にも該当する言葉で、因みに心経はサンスクリット語では「プラジュナー・パーラミター・フリーダヤ」となるが、これは心というよりは心臓のこと。そこで胸と訳してみた。誰かの言葉に、ドキドキしたり、恐れおののくとき、また怒り心頭になってブルブルと体が震えるようなとき心臓が高鳴る。そういう状態の正反対に、誰の言葉であっても心静かに聞けて、さっと受け流し自らの心に引っかからないよう、せめて重く受け止めないように、頭を静かに平安に生きる技が必要だということになるのであろうか。

では、良いことであっても悪いことであっても、だれの言葉でも軽く受け流すにはどうしたらよいのか。人の言葉に反発したり怒ったり、落ち込んだり、悲しんだりするのは自分という存在や自分の意志を尊重しないような言動に対して、自分、自分の方針なり、考えを蔑ろにされて憤慨する心により起こるのではないか。とすると、自分という思い、いわゆる自我さえなければ、そもそも腹を立てることもなくなるのかもしれないが、それはとても難しいことのように思われる。

ところで、様々な場面で、そうした穏やかならぬ心の状態になるのは、過去の業が作用していると仏教では考える。たとえば、同じ緊張を強いられるような場面でも、普通にいられる人もあれば、そういう状態に弱い人もある。同じ災難にあっても、かすり傷一つで済む人、足腰を骨折する人、命を落としてしまう人もある。同じことを言われても、平然と受け流せる人もあれば、すぐに怒りから手が出る人、言葉で口汚く言い返す人、何もせず何も言わぬともいつまでも心に怨念をくすぶらせる人もある。人さまざまであり、それらも過去に意志をもって行った身と口と心の行いが業となって私たちに貯め込まれていることが影響するという。遺伝や生まれ育ち、生活環境や経験も影響するであろうが、それらも含め過去世も含めた業によるのだと考えるのである。

業には善業と悪業がある。善業は好いことをもたらし、心の幸せなることが期待されるのであるからよいとしても、悪業はできれば消し去ってしまいたいというのが人情であろう。そうした悪業が様々な場面で自分にとって悪しき結果をもたらしたり、不本意な反応を引き起こし醜態をさらすということにもなりかねないとしたら、やはり何としても悪業は消滅させたいものであろう。

昨年読んだ『パーリ仏教を中心とした業論の研究』(浪花宣明著・春秋社刊P276~P291)によれば、業には私がという自我の意識がなくてはならないもので、自我さえなくなれば、つまりそれは煩悩がなくなり、最高の悟りに到達することを意味するとは言うのだが、そうすれば業は消滅するという。

相応部経典S.v.320『改悔』には、「悪業を捨断し、悪業を超越する、彼はこのように貪欲を離れ、悪心を離れ、迷妄なく、正念正智をもって、慈悲喜捨の四無量心によって心解脱し、欲界の業がそこに残存せず」。長部経典D.i.251には「戒をそなえ、十悪業を離れ、慈悲喜捨の四無量心によって心解脱すれば欲界の業は残存せず」。・・・と説かれているという。

これら経典には、業のすべてが消滅するわけではないが、確かに欲界の業が消滅するとある。それ以外の色界と無色界の業は、色界無色界禅というかなり上級の禅定者にとっての修習を指すとあるので、通常の人間の世界での善悪業は四無量心の修習によって消滅すると考えてよいのだろう。

しかし、こうした欲界の業が消滅するという四無量心の修習は、その実践が必然であることは分かるが、その完成とされる心解脱(心の解脱、心修習の力による解脱。心が定により貪欲から解脱すること:ポー・オー・パユットー仏教辞典)を成就することの困難さからすると、次に本書に説かれる善悪業が異熟しない、つまり変化して結果しない場合があるという教えは私たちにとっての救いとなるのかもしれない。

これはパーリ論蔵『分別論』(Vibhanga ヴィバンガ)にある教えとのことで、悪業者には苦果があるという道理があり、善因楽果悪因苦果を不動の真実としながらも、業異熟智力の説明の中で、①幸福な趣(六道の中の天界人間界の生まれ)、②幸福な生存の素因(身体の端正なこと)、③幸福な時代(善王善人の時代)、④幸福な行為(正しい行為)により、善業が異熟し、悪業はそれらに遮られて異熟しないという。逆に不幸な趣・生存・時代・行為の場合には、悪業が異熟し、善業はそれらに遮られ異熟しないとある。

既に生まれてきて、こうして生きている私たちができうる可能なことは、唯一正しい行為をするということであろうか。そうして悪業が結果するのを遮りつつ、善業が異熟するのを待つことができることになる。私たちにとっては、『仏前勤行次第』において「十善戒」として読んでいる十善、つまり「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見」に徹して生きることが、過去の様々な悪業の業果から逃れさせてくれ、善業の異熟さえ期待されるということになろうか。改めて勤行次第において「十善戒」が唱えられることの真意を知った思いがする。

四無量心については、前回「年頭所感 他との共生により生きる」において述べたように、僧侶が修する供養法の中に必ず組み込まれ、本尊様の道場を観想する前に修習することになってはいるが、皆様には毎朝あるいは毎晩、ふさわしい時に、生きとし生けるものに、慈(友情の心から幸せであることを願う)・悲(苦しみがなくなるよう願う)・喜(よくあることをともに喜ぶ)・捨(誰をも分け隔てなく平等にみて静かな心に住する)の心を遍く念じられることをお勧めしたい。そうして自我を収めつつ、十悪を離れ十善に励むことによって業果を逃れつつ生きることが私たちには何よりも大切な生き方であることが理解されよう。

掲示板を解説するつもりが、いつの間にか脱線して、この一年ならぬ一生の生き方にまで話が及んでしまった。ともあれ、まずは皆様ともどもに、今年も心身ともに健康で平穏なる一年でありますことを心より念じたい。合掌


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