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『閔妃暗殺ー朝鮮王朝末期の国母』を読んで

2022年01月25日 18時37分23秒 | 時事問題
『閔妃暗殺ー朝鮮王朝末期の国母』を読んで



ある国際政治学者の先生のネット記事を拝見し、是非とも読まねばならないと思い読んだ。ノンフィクション作家・角田房子氏による日韓近代史の中の知られざる大事件について緻密な取材と日韓の資料を調査してその全貌を描いた労作であり問題作である。その大事件とは1895年(明治28年)10月8日に朝鮮王宮にて日韓の武装した暴徒によって王妃が惨殺されたとする閔妃暗殺事件である。私たち日本人のほとんどが知らない事件ではあるが、韓国の人たちには日本の忠臣蔵同様に老若男女誰もがよく知っていることだという。

著者も触れていたが、そんな大昔のことではない、つい百年(今年で127年)前のこの大事件を日本人はまったく知らずに過ごしている。これを知らぬして日韓親善も相互理解も、また併合時代の強制労働や慰安婦問題も簡単に口にしてよいことではないとも思える。自分も含め、何も知らない、学んでいないことを誠に恥ずかしく思える。

この作品は1988年(昭和63年)1月に新潮社から刊行されているから、平成になる前年である。実際に読んだのは、平成5年刊のその文庫版(456頁)であるが、表紙には正装の宮中女性が頭にかつら(クンモリ)をつけ、かんざしをつけた白黒の写真が大きく描かれ、左上が破かれて赤い地に白字で題名が書かれている。この写真は日本人写真師が撮影した閔妃といわれる写真であるという。

著者の角田房子氏(1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)は、Wikipediaには、日本のノンフィクション作家。東京府生まれ。福岡女学校(現 福岡女学院中学校・高等学校)専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により、ソルボンヌ大学を退学して帰国。戦後、新聞記者の夫の転勤に伴って再度渡仏した。1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けたとある。

文庫の裏表紙に、「時は19世紀末、権謀術数渦巻く李氏朝鮮王朝宮廷に、類まれなる才智を以て君臨した美貌の王妃・閔妃がいた。この閔妃を日本の公使が首謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は国際関係史上、例を見ない暴挙であり、日韓関係に今なお暗い影を落とすこの「根源的事件」の真相を掘り起こした問題作である。第一回新潮学芸賞受賞。」とある。

小説は、事件の実行において中心的役割を担う岡本柳之助という武人の墓に計らずも参ったことをプロローグとして書き始め、閔妃が生まれた頃からの日韓の交流史から物語がスタートしている。王宮に李氏王家26代王高宗の王妃として参内し、初めは高宗も幼く見向きもされなかった閔妃は、その頃から将来王の政治経済全般に関する相談相手となることを見越して猛勉強する。そして、物静かな意思の弱い王に御簾の陰から指図をして政治を恣に操っていく。さらには義父にあたる摂政大院君との確執から鎬を削る駆け引きが続き、王宮から追放したりされたりを繰り返し、最後までその遺恨は付きまとっていく。

はてには、「ロシア、清国、日本などの諸外国を舌端で籠絡した政治的女性」として評されるまでになるのだが、百年前のアジアの小国朝鮮にそんな女性がいたとは思いがけないことであったと、著者も感想を語っている。また「帝政ロシアと結び、朝鮮半島から日本の勢力を駆逐しようと計った女傑」、「豪胆果敢な独裁者大院君を敵に回し、国運をかけて戦い抜き、韓末の歴史を華やかに彩った女性」という評もあるという。一方で、政治闘争のために多くの政敵を殺害したり、国家予算をはるかに凌ぐ金額を私的に流用したり、清国に貢物をしたりと国家を破産に導いた悪女と見る向きもあるという。いずれにせよ、日清戦争後、南下政策をとるロシアを防御しなくてはならぬとする日本にとって、ロシア公使夫妻と親密に交際し反日を掲げる閔妃の存在がとにかくも不都合な存在になったということであろう。

そして決行の年、剛毅果断な人物と押され、井上馨から軍人三浦梧楼に公使が変わる。9月1日ソウルに着き、王宮に挨拶に行った際には、閔妃を才能豊かな如才のない賢明な王妃と語っていた三浦公使は、その後公使館の二階居室に引きこもり読経に明け暮れる日々を過ごしていたという。がすでに計画が多方面に進行しており、隠居幽閉されていた大院君を担ぎ出し、朝鮮人によるクーデターに加担したとの偽装を装ったうえで、朝鮮側の訓練隊とともに日本人の守備隊、警察、新聞社や文人などの民間人たちもが参加した暴徒と化して王宮に乱入し、王宮の王や王妃の寝所にまで忍び込み狼藉を働き王妃を殺めたのだという。

計画日が、突如日系の訓練隊解散との指令があり2日早まったこと、大院君担ぎ出しに時間がかかったこと、連絡網がずさんであったなどの理由から、夜明け前には終了しているはずの計画が夜明け間際にずれ込み、多くのソウル市民に暴徒の中に多くの日本人の姿があることを白日の下にさらし、さらには朝鮮侍衛隊の教官であったアメリカ人教官、ロシア人技師にもその惨劇を目撃されていた。

当初の偽装工作も通じずに、大きな外交問題となったが、三浦公使はじめ日本関係者はじきに日本に移送され広島で裁判にかけられた。しかし、もとより出来レースのごとく証拠不十分とみなされて全員が無罪となり解放されている。現地では朝鮮人下手人が三人捕らえられ死刑になっている。がしかし、いまでも朝鮮の人々は日本人によって王妃が殺害された、日本国家による犯罪と信じられている。その14年後、日韓併合前年に伊藤博文がハルビン駅で射殺された事件の犯人安重根は十五か条の伊藤の罪科の第一に「伊藤さんの指揮にて韓国王妃を殺害した」とあるのだという。

著者は国家の計画的な犯行とまでは言っていない。時の外務大臣陸奥宗光と冒頭に登場した岡本柳之助との関連から関係を追及はしているが、黙認したのではというにとどめ、三浦公使とその関係者による単独犯とされている。が事の真相は闇に包まれたままである。最後部分は特に一文字まで食い入るように読み進んだが、読後感は何ともいたたまれない心地であった。誠に申し訳ないお詫びしたい気持ちに包まれた。そして、「あとがき」を一頁ほど読んだとき、思わず涙がこぼれていた。

そこには、稲山経団連名誉会長の告別式に参加した韓日経済協会会長朴泰俊氏が書いた追悼文に、1960年代末に韓国の浦項製鉄所建設に対する融資支援に各国が尻込みする中、唯一手を差し伸べたのが稲山氏であったとある。支援の理由は日本が数十年にわたり韓国支配を通じて韓国民に与えた損失を償う意味でも協力するのは当然である。そう稲山氏が述べた言葉を紹介されており、それを読んだ著者は故稲山氏にお礼を言いたい気持ちにかられたと書いている。私もそんな財界人がいてくれてよかったと思ったのである。この方は確か山崎豊子の『大地の子』においても中国の製鉄所建設に支援をされた人として名前があったように記憶している。

歴史のすべてを知ることなど勿論できるものではない。しかしこれほどの大事件がまるで知られていないというのはいかがなものであろう。王妃閔妃殺害という事件にそもそも日本人が関与していたというのはでっち上げであると唱える人々もある。現場に居合わせた王子が、「国母を殺したのは、我が部下である」と国王高宗が言ったと証言したとする記録もあるらしい。本書の中ではその現場の誰もが異常な興奮状態にあり、誰が何をしたのか断片的な記憶しかわかっていないと記している。様々な見方がある中で、この事件の全貌を様々な見方があるということも含めて、日本人は当事者として知らねばならないのではないかと思えた。

杜撰な計画、指揮系統の不透明さ、事後処理の曖昧さ、責任の不在など、その後の戦争も、今日の政府の借金問題も、原発問題も、原発事故も、また公式文書改竄偽造などにも同様な問題をはらんでいるように思われる。この事件は、この国の持つ宿痾ともいえる問題を露呈していた事件であったともいえようか。

知らなければ、なかったことになるはずもない。間違って信じ込んでいることもある。毎日大きな声で言われていれば、そうなのだと信じてしまうこともある。新聞テレビで言うことを真に受けて信じてしまうこともある。何が本当のことか私たちは知りがたい。今の世の中は特にみんなが言うからそんなものかと思ってしまいがちではないか。何事も自分で本当のことを知ろうとしない限りわからない。騙されて生きるより真実を知りたいと思う。真実と思っていることが間違っていることもある。常に自ら知る努力を続けていたいと思う。ここにあるのは一つの歴史ではあるけれども、なぜ知らなかったのかを考えるためにも、ご一読なされることをお勧めしたい。


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