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[中外日報掲載]釋雲照③ 三世因果と十善

2007年03月02日 15時12分08秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
中外日報3月1日付『近代の肖像』危機を拓く第105回

 釋雲照③ 三世因果と十善

丁度雲照が東京に転機を見出した頃、廃仏毀釈の時代は既に過ぎ去ってはいたものの、欧化思想が蔓延し、知識階層の仏教に対する無関心が進行していた。そのため、西洋の学問を学んだ仏教徒たちによって近代的仏教研究が試みられていた。 

しかし雲照は、こうした西洋的方法で仏教を研究するのではなく、仏教の原点へ回帰することで、知識人に自律的覚醒を促すべく論理的合理的な仏教論を展開したのであった。

明治二十二年に「十善会」結成二年目に刊行された『佛教大意』では、仏教の真理として、諸行無常などを内容とする三法印から説きはじめ、そこに至らんとする菩提心を論ずるにあたり、四諦、十二因縁に触れ、その実践道においては十善戒法、五停心観、四念処など修禅観法を丁寧に解説している。

中でも、「我等は過去以来の善悪の業因と現世人界において造れる業因とによりて、一期命終の後、必ず未来の生を受くべきなり」などと、三世因果の業報論に紙数を費やし、十善戒をはじめとする実践法への論拠とした。

そして、明治三十八年に刊行した『佛教原論』では、因果応報の道理をほぼ全編三百頁にわたって詳述した。

また、『佛教通論』(明治四十三年刊)では、「老衲、十年一日の如く十善を説き、善悪因果応報の真理を主張せり。(中略)しかるに、世間の多くはその教宗(各宗派の教え)の玄妙を説くことのみ意を用いて、仏教の宗骨たる、大小に一貫して片時も離れざるべき因果応報は、あたかも人生における命根たるに、それを忘れたり」と述べている。

各宗門においては、そのころ戒律を疎かにするばかりか、その教義を談じるにあたり、自宗の特徴優位ばかりを主張して、釈尊所説の仏教の仏教たる根幹の教説を軽視し損ないつつあった。

そこで浄土宗の福田行誡師は「仏法をもって宗旨を説くべし」と言われたが、雲照は、諸宗教義の本に本来あるべき教説を開示し、それによって現実社会の諸相を解明し仏教が世の中に不可欠な教えであることを論証しようと試みた。

雲照が一生涯に残した著作は三十余部を数える。その大半は戒律に関するものではあるが、それも含め多くが超宗派的な、宗派仏教の限られた見解を離れた仏教の根本を明らかにしている。

そして雲照は「十善会」を設立し全国に支部をつくり巡教するなど広く世間にむけて、三世に因果応報を詳察するが故に、なんびとも受持すべき教えとして、万行の根本たる十善を提唱した。文明開化に沸き世の中が西洋化して欲望が肯定されていく風潮に抗い、仏教倫理として十善戒を守ることを社会道徳の根本と位置づけ、治国の基礎となることを願った。

こうした一途な雲照の活動は海外にも知られ、英国人フォンデス、セイロン人ダルマパーラ居士など多くの外国人も来訪して教えを乞うた。甥興然のセイロン遊学に機を得て、インドの仏蹟地を異教徒から買収して世界仏教の総本山たらしめ、世界仏教の統一まで視野にあったと言われる。

明治元年の戊辰戦争の最中、法弟と伏見街道を歩いていると、数人の殺気だった荒武者が駆けてきた。脇道を行くことを進言する法弟に、「本道を歩かずにどこを歩くのか」と言われ、本道を行くと、その血相を変えて逃げてきた武士たちは逆に救いを求めた。

雲照はその時、威儀を調え諄々と因縁の尊さを教え、十善戒を授けた。その教化に安心した武士たちは所持金すべてを雲照に供養したという。

正に、生涯仏道の本道を歩まれた人を象徴する逸話と言えよう。

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コメント (2)
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