活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版と印刷人の謎 1

2011-07-17 11:12:10 | 活版印刷のふるさと紀行
 コンスタンチノ・ドラードの周辺にいた印刷人については、いろいろ調べ
ましたが、はっきりしている人が少ないのは残念です。これもキリシタン弾
圧であらゆる記録が抹殺されたからです。

 さて、印刷人ですが、1582年ドラードといっしょに天正少年使節の随
行者としてイグナシオ・デ・リマ船長の定航船に乗ったときは、アグステイ
ニョというほぼ同年輩の少年がいました。
 彼もヴァリニャーノによって最初から、活版印刷術習得を目的に使節に
同行させるべくドラードとともに選出されておりました。

 いわば「印刷要員」としてのこの二人でしたが、私はアグステイニョの方
がドラードよりも印刷実習はたくさんこなして来たのではないかと思います。
 なぜなら、ドラードはポルトガル語やイタリア語が出来たので、なにかと
いうと使節たちの「通訳」に引っ張り出されてたからです。

 それを見かねて4人の使節の面倒をみる立場で随行した修道士ジョルジュ・
ロヨラが「印刷」を学ぶメンバー入りをしました。年長のせいもあって、ロ
ヨラは字母製造などの飲みこみも早く、帰途のゴアやマカオでの印刷作業で
はおおいに力を発揮しました。しかし、1589年マカオ滞在中に病死して
しまい帰国後のキリシタン版の印刷にはかかわることが出来ませんでした。

 私は病死したロヨラは別にして、ドラードとアグスティニョの二人だけで
キリシタン版の印刷が出来たなどとは思いません。
 彼らが行く先々で見せられた印刷物は手彩色のイラスト入りの聖書が多く、
活字主体の聖人伝や教義書は少なかったはずです。なぜなら、「この東洋の
少年にはきれいで大判なものをみせてびっくりさせてやろう」と、見せる側
が気を遣ったからです。

 それならば、ドラードたちが日本に帰りついてすぐにキリシタン版を印刷
できたのはなぜでしょうか。

 
 
 
コメント
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