活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版と印刷人の謎 2

2011-07-18 10:37:55 | 活版印刷のふるさと紀行
 わかっている範囲でいいますと、リスボンからドラードたちに同行した
イタリア人でジョヴァンニ・バプティスタ・ペスティエという修道士がい
ます。ローマで印刷修行をした経歴をかわれて助っ人として加わったと思
われます。1556年生まれで、ドラードより10歳年上です。

 おそらくゴアやマカオでドラードたちがおっかなびっくりで「印刷」に
取り組んだとき、リーダー役をつとめたのが彼でしょう。「印刷係」とし
て加津佐・天草・長崎と印刷所が移転してもイエズス会の名簿に彼の名が
掲載されていますから印刷部門の責任者で通したのかも知れません。
1614年、ドラードと同じ船でマカオに追放されましたが、『日本小文
典』の印刷で腕を振るったり、生涯、ドラードを助け、ドラードを見送っ
てから1626年に亡くなっています。

 加津佐でキリシタン版の印刷が始まった頃に印刷担当になっていた人も
見られますいたと思われます。セミナリヨの教育科目に「印刷術」や「銅
版画彫刻」・「木版字彫刻」などもありましたから印刷技術者養成も出来
たはずです。

 そのひとりとして名前が残っているのは、ペドロ・竹庵、口之津生ま
れで1592年の名簿に「日本文字の印刷係」とあります。『どちりいな・
きりしたん』の出た翌年ですから、国字づくりに苦労したかもしれません。
彼もマカオに追放されましたからキリシタン版と終始付き合ったくちです。

 あとひとり、ミゲル・いちくという人がいます。1561年諫早生まれ
で有馬のセミナリヨから天草のコレジヨに学んでいます。ローマ字と国字
の漢字鋳造に従事していたようです。


 
コメント
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