活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版と印刷人の謎 3

2011-07-19 11:00:05 | 活版印刷のふるさと紀行
 目を皿のようにしてイエズス会の名簿の印刷担当者を探してみますが
なかなか見つかりません。「印刷管理係」、「印刷校閲者」ニコラオ・
デ・アウィラとある人は、いまでいう事務職だったのか、あるいは校正
マンだったのか、印刷工ではないけれど、印刷人の中には入れるべきだ
などと見当をつけねばならないこともあります。しかし、10人そこそ
こです。印刷担当者が不足だったことは確かです。

 1594年3月22日付でゴーメス神父がローマのイエズス会総長に
出した書簡に「日本でいま必要な人材は印刷の経験がある修道士です。
日本の書物をローマ字と国字で印刷できる印刷技術に通じ、経験のある
修道士を求めます」とあります。

 さらにおまけがあって「ジョバンニ・バプチスタ・ペッセは学問が足
りないので、たとえ人のよさ、道徳心、熱意で補っても、印刷所の業績
は向かないでありましょう」といっております。
 学問のある、なしは別にしても、国字を扱える修道士は求める方がヤ
ボです。ですから、印刷現場は日本人主体の職場だったでありましょう。

 その証拠に、同じ年の10月20日、パシオ神父は、「父型や字母の
製造にまったく未経験の日本人印刷工が短期間に、しかも6ドカドを超
えない費用で印刷に必要なすべてのイタリック文字をつくってくれまし
た」と総長あてに報告しています。1594年に天草で印刷された『ラ
テン文典』のイタリック文字のことでしょう。

 何年か前、長崎純心大学での古典籍研究会で話したことがありますが、
キリシタン版の印刷が少人数でなされたという説や印刷機が最初から最後
まで舶載の1台だけだったという説を私は全く信じません。

 ローマ字と国字の本を70種類以上、それに膨大の数の神符のような端
物を20年間でごく少ない印刷人と1台の印刷機で印刷できるはずがあり
ません。少なくとも常時、50~60人、印刷機は3~4台はあったはず
ですし、ドラードたちの帰国以前から「印刷プロジェクトチーム」が作ら
れていたのではないかと考えます。  
コメント
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