活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

文士村の先達だった樋口一葉

2012-03-13 17:07:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 そうだ、ついでに、あの井戸を見て行こう、伊勢屋質店の菊坂の本通りから
階段をおりて樋口一葉の家のあった付近に行ってみました。したみちと呼んで
いる細い道ですが、水道工事のクルマが停まっていて余計に狭くなっていました。

 しかし、昔は露地に草花の鉢が並んで、いかにもレトロな家並みでしたが、
かなり、平成風になっておりました。井戸そのものは変わってはいませんが周辺の
雰囲気がすっかり変わってしまっていました。

 一葉のころはポンプがなくて、つるべ。以前はこの場所で袖にたすきがけをして
水を汲んでいた状景が偲ばれたものですが、いまはまわりが整い過ぎて無理です。
 きれいになりすぎると往時の雰囲気が壊れてしまうなどと、つい、身勝手なこと
を考えてしまいます。
 
 ところで、この菊坂界隈には一葉に限らず、北村透谷、石川啄木、正岡子規、
坪内逍遥、宮沢賢治、徳田秋声、知っている限りでもこんなに文士がいました。
出版社や印刷所、製版所があった時代も長くありました。

鐙坂(
 それと、菊坂を筆頭にこの付近にはやたら、坂があります。鐙坂(あぶみさか)、
炭団坂、、梨の木坂、これまた、まだまだあるはずです。
。話は文士に戻りますが、時代は一葉からずっとさがって大正から昭和になると
同じ本郷菊坂に有名な「菊富士ホテル」がありました。
 ここには、尾崎士郎、宇野千代、正宗白鳥、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、
坂口安吾、そうそうたる顔ぶれがいた時代があります。たしか、昭和20年の空襲で
焼失してしました。

 一葉は1894年(明治27)に菊坂から同じ本郷の丸山福山町に引っ越します。
ここで亡くなるまでの3年間に『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』など、
次々に新聞や雑誌に作品を発表します。そしてここが終焉の地となります。
地下鉄春日の先の白山通りのコナカの前に碑があります。

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樋口一葉とお化粧直しした質店

2012-03-13 10:19:15 | 活版印刷のふるさと紀行
 近くても用がないとしばらくご無沙汰する道があります。家の近くの「菊坂」も
私にとってはそれらしく、今日、久しぶりに歩いてみました。

 そこでびっくりしたのが、伊勢屋質店の土蔵の漆喰がまばゆいほど白く塗りなお
されていることでした。といっても、正確に言えば、旧伊勢屋質店であって現在は
営業されいるわけではありません。樋口一葉ゆかりの質店として、休日にはこのあ
たりを散策する人が多いようですし、11月の一葉忌には内部は当時のままというの
で開放されることもあります。

 樋口一葉は生まれこそいまの千代田区内幸町ですが、24年の短い生涯のほとんど
をいまの文京区界隈で過ごしています。
 この伊勢屋のある菊坂の下みち沿いの家に引っ越したとき彼女は18歳で、前年に
父を失い、母と妹の面倒をみなくてはなりませんでした。

 14歳から入門している中島歌子の萩の舎では学友から冷遇されていました。華族
の子女が多いなかで、士族とは名ばかりで授業料免除の身を馬鹿にされたせいでし
ょう。創作を志して、上野図書館に通って勉強をし、半井桃水に創作指導を受ける
のですがなかなか芽が出ないまま失意と貧困に向かい合わねばなりませんでした。

 伊勢屋に初めて質入れに行ったのは1893年(明治26)4月3日とされています。
彼女21歳でした。明治29年、24歳で亡くなったとき伊勢屋が香典1円を出したとい
いますから、短い間ですがかなりのお得意だったと思われます。
 いずれにしても120年も前の話です。こうしてお化粧直しをしながら、当時の建物
が残されていくのは大変でしょうがいいことです。
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