そうだ、ついでに、あの井戸を見て行こう、伊勢屋質店の菊坂の本通りから
階段をおりて樋口一葉の家のあった付近に行ってみました。したみちと呼んで
いる細い道ですが、水道工事のクルマが停まっていて余計に狭くなっていました。
しかし、昔は露地に草花の鉢が並んで、いかにもレトロな家並みでしたが、
かなり、平成風になっておりました。井戸そのものは変わってはいませんが周辺の
雰囲気がすっかり変わってしまっていました。
一葉のころはポンプがなくて、つるべ。以前はこの場所で袖にたすきがけをして
水を汲んでいた状景が偲ばれたものですが、いまはまわりが整い過ぎて無理です。
きれいになりすぎると往時の雰囲気が壊れてしまうなどと、つい、身勝手なこと
を考えてしまいます。
ところで、この菊坂界隈には一葉に限らず、北村透谷、石川啄木、正岡子規、
坪内逍遥、宮沢賢治、徳田秋声、知っている限りでもこんなに文士がいました。
出版社や印刷所、製版所があった時代も長くありました。
鐙坂(
それと、菊坂を筆頭にこの付近にはやたら、坂があります。鐙坂(あぶみさか)、
炭団坂、、梨の木坂、これまた、まだまだあるはずです。
。話は文士に戻りますが、時代は一葉からずっとさがって大正から昭和になると
同じ本郷菊坂に有名な「菊富士ホテル」がありました。
ここには、尾崎士郎、宇野千代、正宗白鳥、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、
坂口安吾、そうそうたる顔ぶれがいた時代があります。たしか、昭和20年の空襲で
焼失してしました。
一葉は1894年(明治27)に菊坂から同じ本郷の丸山福山町に引っ越します。
ここで亡くなるまでの3年間に『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』など、
次々に新聞や雑誌に作品を発表します。そしてここが終焉の地となります。
地下鉄春日の先の白山通りのコナカの前に碑があります。
階段をおりて樋口一葉の家のあった付近に行ってみました。したみちと呼んで
いる細い道ですが、水道工事のクルマが停まっていて余計に狭くなっていました。
しかし、昔は露地に草花の鉢が並んで、いかにもレトロな家並みでしたが、
かなり、平成風になっておりました。井戸そのものは変わってはいませんが周辺の
雰囲気がすっかり変わってしまっていました。
一葉のころはポンプがなくて、つるべ。以前はこの場所で袖にたすきがけをして
水を汲んでいた状景が偲ばれたものですが、いまはまわりが整い過ぎて無理です。
きれいになりすぎると往時の雰囲気が壊れてしまうなどと、つい、身勝手なこと
を考えてしまいます。
ところで、この菊坂界隈には一葉に限らず、北村透谷、石川啄木、正岡子規、
坪内逍遥、宮沢賢治、徳田秋声、知っている限りでもこんなに文士がいました。
出版社や印刷所、製版所があった時代も長くありました。
鐙坂(
それと、菊坂を筆頭にこの付近にはやたら、坂があります。鐙坂(あぶみさか)、
炭団坂、、梨の木坂、これまた、まだまだあるはずです。
。話は文士に戻りますが、時代は一葉からずっとさがって大正から昭和になると
同じ本郷菊坂に有名な「菊富士ホテル」がありました。
ここには、尾崎士郎、宇野千代、正宗白鳥、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、
坂口安吾、そうそうたる顔ぶれがいた時代があります。たしか、昭和20年の空襲で
焼失してしました。
一葉は1894年(明治27)に菊坂から同じ本郷の丸山福山町に引っ越します。
ここで亡くなるまでの3年間に『暗夜』、『大つごもり』、『たけくらべ』など、
次々に新聞や雑誌に作品を発表します。そしてここが終焉の地となります。
地下鉄春日の先の白山通りのコナカの前に碑があります。