活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

銀座を八丁を練る鉄砲洲のおみこし

2012-03-27 12:40:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 「今年こそ、ぜったい来いよな」、友人は黙って紙筒を押し付けました。
開いてみると五月の鉄砲洲稲荷神社例大祭告知ポスターでした。見るからに熱気ムンムンの
お神輿をかつぐ男女を上からとらえた絵柄に、「絆」という文字が白抜きになっていてヘッ
ドコピーは「町内はお祭り家族」とありました。

 東北大震災以来、絆はあちこちで使われています。彼はなかなかの批評家、「お祭りの
ポスターまで」といいたいのかと思ったら、誤解でした。彼は純粋にお祭り讃美の講釈を始
めました。住まいが地元も地元、中央区湊1丁目の住民で、大祭の役員ですから。

 ここで鉄砲洲のいわれをを知らない方のために、ヤボな解説をしておきますと、三田村鳶魚
(えんぎょ)編『江戸年中行事』に▲鉄砲洲 南北へ凡八丁ばかりの地所をいふ。寛永の頃、
大筒の町間を試みし所ゆゑ此号ありといふ、又この出洲の形、鉄砲に似たる故の号也ともいへ
り。とあります。つまり、寛永のころにここで大砲の射撃演習をしたからという説と、徳川
家康が入府したころ、南北八丁の細長い河口の島だったというのと二説あるようです。


 「ちょっと豪勢なんだ」、「ウチのお神輿は神社のある隅田川沿いの湊一丁目を出て入船町
から新富町、銀座一丁目からずっと銀座の目抜きを八丁目まで行き、次は昭和通りをはさんで
また銀座八丁から新富町、入船町、明石町、そして湊町まで行くんだ。スゲーだろう」
 
 たしかに、聖路加あたりから銀座一円の産土神とくれば、口惜しいけれど、「たいしたもの
だね」合槌を打たずにはいられません。日本一、都心の氏神様といえましょう。

 創建が平安時代初期、仁明天皇の承和八年といいますから西暦なら八四一年、ポスターに
ある「御鎮座壱阡百七拾弐年」はナットク。
「だけど、そのころは海岸の村だったんじゃないの」 湊とか入船とかの地名からみても、多分、
港があって船の出入りが多い土地柄だったに違いないと、水を向けたら、「そうさ、埋め立てに
よって何度も引っ越しているさ。京橋から八丁堀、そして鉄砲洲と」さすが土地っ子。
とうとう、神輿が神社に勢ぞろいする五月四日に一本提げて行く約束をしてしまいました。
 これも「絆」でしょうか。
コメント (1)
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