活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

フェリーペ2世その2

2012-03-16 16:21:02 | 活版印刷のふるさと紀行
 東京のは別にして、私が知っている限り印刷博物館としてはマインツのグーテンベルク印刷
博物館、アントワープのプランタン・モレトゥス博物館、リヨンの印刷・銀行博物館があります。
グーテンベルク博物館とはゲーテの詩の日本語の組版寄贈の件で、プランタンには2度、3度と
見学でお邪魔していますが、リヨンとはまだ、縁がありません。

 プランタン、クリストフ・プランタンは1520年にフランスのトゥールあたりに生まれたよ
うです。フェリーペ2世の即位の1年前、1555年にアントワープで印刷所を開いています。現在
プランタン博物館を見学すると、1570年代の最盛期の印刷所が再現されていますが、おそらく
創業当初は有名なこのジョス・バード工房の絵のような貧しい施設ではなかったでしょうか。

 創業初期、プランタンの経営を助けたのに、フェリーペ2世がブリュッセルで執り行った
カール5世の大葬記録の豪華本がありました。これでプランタンの名は一躍有名になりましたが、
1562年に差し押さえ、競売の憂き目にあいます。しかし、翌年には再建に成功、1560年代後半に
は何と国王フェリーペ2世から借金をしてスペイン領内で使うカトリックの祈祷書や典礼書を印刷
しています。専用の印刷機だけでも10台以上常時稼働したといいます。これは、時代的には伊東
マンショをはじめ、4使節が生まれたころでしょうか。

 1570年代には印刷・版元・書籍の卸、小売りからパリから高級革製品の輸入販売まで手がける
ようになり、プランタンはヨーロッパの「印刷王国」といわれるようになりました。
以後、300年12代も栄え、いまは印刷所と住居までふくめた再現印刷博物館になっています。
 それに引き換え、フェリーペ2世の方は、1582年、スペインの無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、
太陽の沈まぬといわれた大帝国が破産、1598年失意のうちに亡くなるのです。
たまたま、日本では秀吉が亡くなった年でしたが、日本の欧風直伝のキリシタン版の印刷も終息
に向かいはじめていました。






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フェリーペ2世のこと、その1

2012-03-16 11:59:12 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の塾長樺山紘一先生の毎日曜日、日経新聞文化欄連載『欧人異聞』
は楽しい読み物です。「異聞」ですから次から次へ知らなかったエピソードが登場
します。

 その樺山門下の塾生でありながら、私は異聞どころか「正史」が頭に入っていない
のですから、われながら情けない思いです。受験勉強のせいにしたくありませんが、
コマ切れ知識ばかりで、とくに系統的なヨーロッパ史に弱いのが致命的な欠陥です。

 たとえば、活版印刷術を日本にもたらした天正遣欧少年使節が訪問先で親しく会う
ことができた一人にフェリーペ2世がいます。日本を発つときはスン国王としての謁見
が予定されていたのですが、1584年11月14日マドリードの宮殿でおそるおそる彼らが
進み出たときのフェリーペはスペイン国王であり、ポルトガル国王を兼ねるようにな
っておりました。

 フェリーペの父親はマゼランの世界一周を支援したカルロス1世、母親はポルトガル
王女のイザベルでした。この二人の間にフェリーペが誕生したのが1526年のこと、1556
年30歳でカルロス1世の跡をついでいます。時代としてはポルトガル人が種子島に漂着
したのが1543年ですから、ほぼ同時代です。日本とちがって、ヨーロッパでは言語や国
の垣根を越えて婚姻がなされ、新しい王家ができる事情など、受験勉強では割愛して
済ましてきた気がします。

 フェリーペも父に劣らず活躍します。オスマントルコとの戦争で国威を発揚しますし、
父親の向こうを張ってコロンブスのアメリカ大陸発見に力を貸します。銀を介しての
経済力の向上にも政治力を発揮します。イスラムからカトリックへと大きく世の中を
変えたのもフェリーペといっていいでしょう。

 このフェリーペが文化面では「印刷」にかなりテコ入れをしていたらしいのです。
その点については次回。

コメント (1)
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