◎江南文三が『日本語の法華経』を書いたわけ
江南文三の『日本語の法華経』(大成出版、一九四四)には、「この本を書いたわけ」という自序がついている。本日はこれを、紹介してみたいと思う。
同書の初版(一九四四)は、国会図書館に架蔵されておらず、また、戦後すぐに出た柏書房版(一九四六)では、著者の自序が省かれている。その後、大蔵出版から出た一九六八年版には、自序が載っているが、実はこれは、オリジナルなものではない。その一部がカットされ、または書き替えられている。
江南文三が戦中に書いた自序を読もうとすると、古書店から初版を入手するか、もしくは初版を架蔵している図書館を探すしかない。ということで、ここで、初版の自序を紹介してみるのも、一定の意味があると思う。
自序はかなり長いので、二回に分けて紹介する。《 》は、一九六八年版で、そのように書き替えられていることを示す。【 】は、一九六八年版で、その部分がカットされていることを示す。
この本を書いたわけ《はじめに》
支那《中国(以下、同じ)》の孔子さまよりも二年あとに死んだお釈迦さまが死ぬすこしまえに催した大講演会のありさまを書いたものが、印度語《インド語(以下、同じ)》の妙法蓮華経です。
この講演会で、お釈迦さまは、とうとう一番ほんとうのことを人に教えようとなすつたのです。人間のいのちのために何よりも一番大事なことは、学問ででも理屈ででも、稽古ででも鍛へででも、手に入れることの出来ないことなのだが、一方、ほんとうの馬鹿の眼から見て、馬鹿のやうに見えるやうな人たちにでも分けなく手に入れられるもので、それは、つまり、第一線に立つた時のやうな、迷はない明るい朗らかな精神なのだということをお明かしになつて、その精神を人々の身に著け《着け(以下、同じ)》させて、ほんとうに生きがひのある生きかたと、死にがひのある死にかたをさせてやりたいとお思ひになつて、あつちからあの手を使って言つてきかせ、こつちから斯う言つてきかせると言ふやうにして、いろいろとおしやべりになつていらつしやるのです。
印度語のこの妙法蓮華経を、亜細亜《アジア》大陸に当時住んでいた【大和】民族が大陸に建てた後秦と言ふ国の皇帝陛下の姚興さまと申上げるかたの御命令をうけて、印度人《インド人》のお父さんと大陸に住んでいる【大和】民族のお母さんとのあひだに出来たあひの子の鳩摩羅什と言ふ人が、支那語《中国語(以下、同じ)》に書き直したのが、この「日本語の法華経」のもとになつてゐる妙法蓮華経なのです。
印度語の妙法蓮華経を支那語に書き直したものは、鳩摩羅什のもののほかにも沢山あるのですが、この人のものが、その後支那でも朝鮮でも、一番よく人が読むやうになつて来ていまして、日本でも、聖徳太子以来、本家の印度《インド》よりも支那よりも、一番よく人人が読むやうになつていて、日本国民の精神力のかため《かなめ》になったのです。
妙法蓮華経【に】は、【南無阿弥陀仏と唱へさへすれば極楽へ行けるとか、南無妙法蓮華経と言ひさへすれば仏になれると言ふやうな、いくぢのない出たら目はひとことも書いてありません。】ほんとうの、真剣な、人の生きかたと死にかたを教へこむ本なのです。
斯んな大事な本が、とうとう、近頃のように、日本人に読めない分からないものになつてしまつていたのでは、折角お釈迦さまが人の身に著けさせてやりたいと思つておしやべりになつた大事なことを一番よくほんとうに身に著ける力のある大東亜共栄圏《アジア》の人たち、ことにその力を昔からはつきりと身に著けていた日本のひとたちに取つて、ほんとうに勿体ない話しです。どこまでいつても、夢のなかの寝ごとのやうな取りとめもない理窟の鎖に縛られ、ありもしない手械足械をその魂にとり著けていて、これをいさぎよく絶ち切り、またぶちこわして、生まれた時のままの少しもよごれていない、楽な自由な身のうえになることが、なんだか恐ろしくて出来ないやうになつてしまった欧羅巴《ヨーロッパ》の人たちのやうに、生きてゐることも死ぬこともつらいという、生まれたかひのない一生を送るのを善いことのやうに思つて貰ひたくないと思ふので、江南がこれを誰れにも分かる日本語で書き直したわけなのです。昔からの日本人のやうに、よくこれを身に著けて頂かうと言ふわけなのです。
これで半分強である。
すでに、かなり戦時色の強い文章であることを、読み取っていただけたかと思う。
一九六八年版では、戦時色の強い部分を中心に、表現が言い直され、あるいは削除がおこなわれている。
こうした措置については、もちろん賛否の議論があるところであろう。ここで問題だと思うのは、誰がこのような「書き替え」をおこなったのかが明らかでなく、また、「書き替え」をおこなった旨の断りもないということである。もちろん、江南文三の遺族に了解を得た上での措置なのかどうかも不明である。今になって、言うべきことことではないかもしれないが、やはりこれは問題ではないのか。【この話、つづく】
今日の名言 2012・12・4
◎聖徳太子以来、本家の印度よりも支那よりも、一番よく人人が読む
江南文三が、日本人と妙法蓮華経の関わりについて述べた言葉。江南文三『日本語の法華経』(大成出版、1944)の「この本を書いたわけ」に出てくる。上記コラム参照。