◎日蓮とルッターとの共通点
矢内原忠雄『余の尊敬する人物』(岩波新書、一九四〇)の中の一篇「日蓮」は、全部で六章からなる。昨日は、「三、佐渡流罪」の一節を紹介したが、本日は、「六、日蓮の信仰と性格」の一部を紹介しよう。
日蓮は民間無名の一平民僧でありました。然るに彼が攻撃の対象とした仏寺並に高僧は、北条一門を始めとして有力者の尊崇を受け、世に時めいた者であります。併し日蓮は競争心や嫉妬心から、彼らに向つて論難折伏〈シャクフク〉を為したのではありません。彼は社会的に有名な人物に喧嘩を吹きかけ、それによつて自己の売名を計るやうな小人物ではありません。或ひは又ひそかに権力者に通じ、時流に乗つて他の学者を陥れることを商売とするやうな、陰険な策士ではありません。日蓮は喧嘩を好んで喧嘩したのではない。彼は真理を愛したが故に、真理の敵に向つて止むを得ず論難を加へたのです。
この論難が原因となつて、日蓮は数度の苦難に遇ひました。佐渡に流された時、彼は自ら反省して言ひました、
「疑うて云く〈イワク〉、当世の念仏宗禅宗等をば、何なる〈イカナル〉智眼〈チゲン〉をもつて法華経の敵人、一切衆生の悪知識〈アクチシキ〉とはしるべきや。答へて云く、私の言を出すべからず。経釈〈キョウシャク〉の明鏡を出して〈イダシテ〉、謗法の醜面をうかべ、其の失〈トガ〉を見せしめん。生盲〈ショウモウ〉力及ばず。法華経の第四宝塔品に云く、云々。」(『開目鈔』)
日蓮は自己の信念の基礎をば常に経文に求め、自己の言説をば一々経文によつて裏打しました。日蓮の文章言論は、経文の引用によつて満たされてゐます。之は自己の言を装飾する為めの衒学的〈ペダンチック〉な引用ではありません。自説の貧弱なことを隠蔽する為めの偽装〈カモフラージ〉ではありません。或る意味では、日蓮に自説といふものはありませんでした。彼は経文に事のみを語つたのです。日蓮の言は日蓮一個の私の言ではない、之は経文の言である。この事実が日蓮の言論にあの強さを賦与した根本の原因です。彼は年若き頃清澄山〈キヨスミヤマ〉に居たとき、既に涅槃経を読んでその中の「依法不依人〈エホウフエニン〉」といふ語を見出しました。「法に依りて人に依らず」といふのです。涅槃経は釈迦の死ぬる時の遺言であります。世も末になれば釈尊の道を学ぶ者が詞〈コトバ〉巧みに我意を宣べ、種々の宗旨が出来〈シュッタイ〉するであらう。この故に釈迦入滅後は、いかに智慧かしこく位貴き〈クライタカき〉人でも、人間の教師の詞は用ふべきでない。釈迦の説き置く経文に依つて仏法は判断すべきであるとの教〈オシエ〉を、「法に依りて人に依らず」と言つたのであります。この「法に依りて人に依らず」といふことを、日蓮に終生の研究及び思索の方法と為したのであります。後年『開目鈔』の中にも、「宗々互に権を諍ふ〈アラソウ〉。予此をあらそはず、但〈タダ〉経に任すべし」と述べてゐます。
日蓮の依り頼みは経文でありました。日蓮より後るること三百五十年にして、ドイツに現はれた宗教改革者ルッターが聖書を依り頼みとしたが如くであります。彼の言論が経文に立脚し、彼の生涯が経文に符合する時、日蓮は大磐石の勇気をもつたのです。「日蓮は聖人〈ショウニン〉にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。」(『佐渡御書』)又「我身はいうにかひなき凡夫なれども、御経を持ち〈タモチ〉まいらせ候分齊〈ブンザイ〉は、当世には日本第一の大人なりと申すなり。」(『撰時鈔』)、この確信が、日蓮の戦闘力の根源であつたのです。
ここで、矢内原忠雄は、日蓮をルッターと対等に、あるいは対等以上に評価している。これは、キリスト者としては、破格の評価と言えるだろう。
明日、もう一度だけ、矢内原の「日蓮」論を紹介する。
◎法に依りて人に依らず
涅槃経にある言葉。原文では「依法不依人」。若き日の日蓮は、この言葉に注目したという。キリスト者の矢内原忠雄は、日蓮がこの言葉に注目したことに注目した。上記コラム参照。