◎国家に向かってノウと言える日蓮
矢内原忠雄『余の尊敬する人物』(岩波新書、一九四〇)の「日蓮」の末尾の部分を、本日は紹介する。
優しき日蓮から今一度強き日蓮に返つて私はこの稿を結ばうと思ひます。晩年身延から鎌倉の弟子たちに書き送つた手紙の一つに、日蓮は次のやうに言つてゐます、
「各々我弟子と名乗らん人々は、一人も臆し思はるべからず、親を思ひ、妻子を思ひ、所領を顧ること勿れ。無量劫よりこのかた、親の為、子の為、所領の為に命をすてたる事は、大地微塵〈ミジン〉よりも多し。法華教の御故〈オンユエ〉には未だ一度もすてず。法華経をそこばく行ぜしかども、かかる事出来〈シュッタイ〉せしかば、退転してやみにき。‥‥日蓮さきがけしたり。和党共〈ワトウドモ〉、二陣三陣つづいて、迦葉〈カショウ〉阿難〈アナン〉にもすぐれ、天台伝教〔天台大師、伝教大師〕にも越えよかし。わづかの小島の主等〈ヌシラ〉がをどさんに恐れては、閻魔王の責〈セメ〉をばいかんがすべき。仏の御使〈オンツカイ〉と名のりながら臆せんは、無下〈ムゲ〉の人なり、と申しふくめぬ。」(『種々御振舞書』)
日蓮の弟子たちは二陣三陣、法門の弘通〈グツウ〉につとめました。日蓮の自ら伝道した地域は身延以東でありましたが、死の二日前、当年十四歳の経一麿〈キョウイチマロ〉といふ弟子に遺言して、勉学の上京都に法門を弘むることを命じました。それから十二年の後、経一麿の成人したる日像〈ニチゾウ〉は京都禁裏の門前に立ちて、始めて南無妙法蓮華経を唱へたと伝へられます。
日蓮の高弟は日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六名でありました。この中〈ウチ〉日持については、日蓮第十三回忌の後身延の墓に別〈ワカレ〉を告げ、蝦夷の地に向つたとのみで、その後の消息がわかりません。彼は言つたさうであります、「日本国内の伝道は日昭、日朗にて事足りよう。閻浮提〈エンブダイ〉広宣流布とあるからは、日本一国は物の数でない。自分はこれより外国に渡つて、広く世界に此の法門を弘通しよう」と。日持の大陸伝道の跡は知られません。しかし朝鮮に法華宗旨の寺があり、支那にも法華の寺院のあることが後世の文献に記載せられてゐるのは、恐らく日持伝道の跡であらうと伝へられてゐます。私はそれが史実であるか伝説であるかを知りません。一個の伝説であるに過ぎぬとしても、之は愉快な伝説です。伝教〔最澄〕が支那から学んで来たものを、日蓮の弟子が支那に伝へたといふのです。蒙古が兵船を以て来寇したに対し、日蓮の弟子は正法を以て報いたといふのです。之は天下の公道、宇宙の真理を学んだ日蓮の感化として、誠に適はしき逸話であります。彼は国家主義の宗教を支那に伝へたのではありません。さういふものは外国にまで広宣流布せられるに適せず、又実行も出来ないのであります。
日本人は長い間の封建制度の下に、「長いものには巻かれろ」といふ思想的奴隷の態度を養はれて来ました。真理の故に真理を愛し畏しむ〈ツツシム〉といふ思想は蔽はれて来たのです。併し何時までもさうであつてはいけますまい、鎌倉時代の日蓮は、真理の為めに真理を愛し、真理によつて国を愛し、真理の敵に向つて強く「否〈ノウ〉」と言ふことの出来た人であります。さういふ人が昔の日本人の中に居たといふことは、私共の慰めであります。
矢内原忠雄が、日蓮を「尊敬する人物」のひとりに挙げた理由は、すでに明らかであろう。日蓮が、「長いものには巻かれろ」式の「思想的奴隷」とは対極にある、日本では稀有な思想家・宗教家であったからである。
特に、この『余の尊敬する人物』が発表された一九四〇年(昭和一五)の時点においては、思想家から庶民まで、あらゆる国民は、国家の「思想的奴隷」といった存在になろうとしていた。そうした中で矢内原は、国家を超えたところに「宇宙の真理」を見出していた日蓮という思想家・宗教家に注目したのであろう。もちろんこれには、当時、国家からの弾圧に直面していた日蓮門下の宗教関係者を励ます意味があったと同時に、キリスト者としての自己を鞭打つ意味もあったと考えられる。
今日の名言 2012・12・18
◎真理によつて国を愛し、真理の敵に向つて強く「否」と言ふ
矢内原忠雄の言葉。「否」には、カタカナで、「ノウ」というルビが振られている。矢内原によれば、日蓮はこのことができた宗教家であったという。『余の尊敬する人物』(岩波新書、1940)117ページより。上記コラム参照。