◎多羽田敏夫氏が指摘する「関係の絶対性」と「業縁」の関連性
話を戻して、多羽田敏夫氏の論文「〈普遍倫理〉を求めて――吉本隆明「人間の『存在の倫理』」論註」について述べる。この論文は、第五六回群像新人文学賞評論部門の優秀作に選ばれ、『群像』六月号に掲載されたものである。
多羽田氏は、論文の冒頭で、二〇〇一年の同時多発テロ事件に対して、吉本隆明がおこなった発言について紹介する。続いて「マチウ書試論」における「関係の絶対性」に触れ、次に『歎異抄』第十三条に触れ、さらに吉本のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」の関連性について指摘している。
該当する部分を引用してみよう。
……むろん吉本は、テロによる殺人を許容しているわけではない。殺人を許容しようがしまいが、人間は、個々の意志を超えた「関係の絶対性」によって人を殺し、また殺されることもある。その冷厳な事実を目を背けずに認識せよ、と吉本はいっているのだ。
たとえば、吉本が『最後の親鸞』(春秋社、一九七六年)、『歎異抄』第十三条の挿話について触れた註釈は、「関係の絶対性」と無縁ではあるまい。その挿話とは次のようなものなのだ。あるとき、親鸞が弟子の唯円に「わたしのいう言葉を信ずるか」「わたしのいうことに背かないか」と問うと、唯円は、「おおせのとおり信じます」「おおせの主旨をうけたまわります」と答える。その唯円にむかって親鸞は、「たとえば人を千人殺してみよ、そうすれば往生は疑いないだろう」というのだが、唯円は「一人でさえもわたしのもっている器量では、人を殺せるとはおもえません」と返答する。すると、親鸞が「何事も心にまかせたことならば、往生のために千人殺せといえば、その通り殺すだろう。けれども一人でも殺すべき機縁がないので殺害しないのである。自分の心が善いから殺さないのではない。また殺害しまいと思っても百人千人を殺すこともあるだろう」と言うのである。吉本は、親鸞のこの言葉を次のように註釈している。
《人間は、必然の〈契機〉があれば、意思とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)は、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して撰択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって撰択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して撰択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという〈不可避〉的なものからしかやってこない。(『最後の親鸞』)》
人間は、必然あるいは不可避的な〈契機〉があれば、個々人の意志に関わりなく、人を殺してしまうことがありうること。ここで吉本が述べている不可避的な〈契機〉や「業縁」が、「関係の絶対性」という概念とほとんど同義であることは明らかである。いや、吉本は、まぎれもなく、この『歎異抄』第十三条の註釈を「関係の絶対性」の認識で説いているのだ。実際、吉本がここでいっている「必然に〈契機〉」や「業縁」、また「不可避」という言葉を、すべて「関係の絶対性」という言葉に置き換えてもその論旨に変更はあるまい。
引用が長くなったが、ここで多羽田氏は、吉本のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」の関連性をハッキリと指摘している。
私はこれを非常に重要な指摘だと思うが、多羽田氏は、このことはみずからが初めて指摘したことであるなどを、この論文で強調してはいない。
これはなぜか。おそらく、吉本がその文章のなかで(『最後の親鸞』)、ほとんどそれに近いことを述べており、多羽田氏はこれを、半ば自明のことと考えておられたのではないだろうか。あるいは、多羽田氏以前に、すでに誰かが、吉本のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」の関連性を指摘しているということがあり、多羽田氏がそのことを知っておられたのかもしれない。【この話、続く】