礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

野口英世をめぐる「神話」と「物語」

2013-08-17 04:52:18 | 日記

◎野口英世をめぐる「神話」と「物語」

 昨日の続きである。「週刊 日本の100人 改訂版」067号(ディアゴスティーニ・ジャパン、二〇一三年四月三〇日)の『野口英世』の二七ページにある文章は、尾崎光弘さんが、雑誌『ながはま』第二二号(一九九六年一一月九日)に載せた「野口英世『物語』の発見」という論文のダイジェストともいうべきものである。
 にもかかわらず、そこには、「尾崎氏の論文の趣旨を、以下に要約してみよう」といった断りがない。なぜか。それは、この文章の筆者が、尾崎論文に含まれるデータを援用しながら、その結論部において、尾崎さんが主張したかったこととは、異なる方向を示そうととしたからだと思う。
 すなわち、「週刊 日本の100人 改訂版」『野口英世』の二七ページにある文章は、尾崎論文を完全に換骨奪胎したものであり、そうである以上、「尾崎氏の論文の趣旨を、以下に要約してみよう」といったような書き方をするわけにいかなったのである。
 とはいえ、尾崎論文を踏まえている事実を隠すわけにもいかない。そういうわけで、この文章は、どこまでが尾崎さんの指摘で、どこからが自分の見解かが判然としないものになってしまったのであろう。
 ここで、尾崎光弘さんの文章を、少し引用しておこう。

 戦後だけに目をやると、昭和四十九年以降現在〔一九九六年〕まで多くなっている。なぜ言及数がふえたのか、今後の課題となりえよう。おそらく野口評価のコンセプトが変わり始めたのである。変わり目といえばグラフには表れていないが、十年前の昭和三十九年は注目すべき年である。『文芸春秋』三月号に、科学史家の筑波常治〈ツクバ・ヒサハル〉の論文「野口英世もう一つの顔」が発表されたからである。そこには、従来の修身的な偉人・野口ではなく、金銭にルーズで周囲に迷惑をかけどうしの人間・野口が描かれていた。では、それ以前の野口英世伝には筑波常治の指摘するようなマイナスイメージの野口像はなかったのかといえば、そうではない。奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、一九三三)と、エクスタイン著・内田清之助訳『野口英世伝』(東京創元社、〔一九五九〕原著一九三一)がある。
 この二冊はこころある研究家からは野口伝の基本版にあげられており、これには赤裸々な人間・野口像もきちんと記述されているのである。それなのに世の中には子供向けを主流に、野口自身も「このように完全無欠な人間などいない」と不快感を隠さなかったという・『発見王・野口英世』(大正十年)の系統ばかりが普及している。ここにはあきらかに野口を修身的人物に仕立てた動きがあったと考えなければならない。野口英世「神話」の発生は興味深いテーマになるだろう。

 すなわち尾崎さんは、世の野口英世伝が、野口の実像から離れ、「神話」的に、あるいは「物語」として、語られてきた事実に注目した。そして、これまでの野口英世伝を分析した上で、時代や世相によって、野口に関する「神話」が大きく変容してきたことを、この論文「野口英世『物語』の発見」において、鮮やかに示したのである。
 これは、野口神話を相対化し、解体する大胆な作業であった。ところが、この尾崎論文を援用した「週刊 日本の100人 改訂版」『野口英世』の二七ページにある文章は、その結論部で次のようなことを言っていた(八月一五日のコラムでも引用した)。

 このように「努力」「忍耐」「母性愛」「国際貢献」など、英世の生き方を切り取るキーワードは、否定することのできない根本的な価値観ばかりであり、英世の人生を構成する要素がいつの時代にも必要とされてきたことが分かる。英世の伝記は形を変えながら、これからも多くの人々に読み継がれてゆくのである。

 少なくともこれは、尾崎論文が主張しようとした趣旨ではない。尾崎論文をそのように読むのは自由であるが、執筆者は、そうした「読み込み」が、尾崎論文の趣旨とは異なるものであることを、何らかの形で示すべきであった。ひとの論文を援用するものの最低限の礼儀として。

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