礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

伊藤尚賢とその娘・伊藤克

2014-12-14 04:21:15 | コラムと名言

◎伊藤尚賢とその娘・伊藤克

 今月の一〇日に、伊藤尚賢という医学系のジャーナリストの編著書、計七九冊を紹介したところ、伊藤尚賢のお孫さんを名乗られる方から、再びコメントをいただいた。
 まず、これを紹介させていただきたい。

 コメントをさっそく取り上げて下さいまして、ありがとうございます。
 10年ぶりで尚賢の名をネットで検索したところ、こちらのブログに行き当たりました。祖父に関心を持って下さる方がいらしたこと、そしてそれが礫川さまであったことに驚き、また大層嬉しくもありました。ちょうど、御著「サンカと三角寛」を再読しようと思っていたところだったからです。
 先日書き込んだことに、余分ながらいささか追記を致します。
 名前の読みは父が「尚賢(しょうけん)」と書いていますので、本人がそう名乗っていたのだと思いますが、それが本来の読みであったかどうか。
 父の姉の誰かの手になる「我が父病床の記」というものが残っていたそうで、「(27日)午后5時25分死亡す。丹毒に敗血症を併発す。行年53才。」そして父は<後日譚>として次のように記しています。「杉本医師は…ドイツに留学したのかどうか知らないが、ドクトル・メジチーネという肩書きをもっていた。…父の死のことで医者たちが騒ぎ出し、誰かが告発したのか、子供だったのでよく分からないが、裁判沙汰になったらしく、その時は母杉本氏を庇い、結局杉本氏は何の処分も受けなかった。」
 次はまったくの蛇足となりますが、お許しください。
 尚賢の娘で父のすぐ上の姉伊藤克は、日本文学を中国に、中国文学を日本に紹介した翻訳者でした。その自伝「悲しみの海を越えて」(講談社、絶版)から紙数の都合で割愛された部分が、その死後娘の手で中国で出版されております。そこに大塚の医院の様子などが描写されているようなのですが、本は手元にありますものの、何分にも中国語なので、私には漢字を拾い読みして想像することしか出来ません。
 さて、昨日以上の文を書き込もうとしたところ、パソコンがトラブルを起こし、書き込むことが出来ませんでした。本日改めてブログを拝見したところ、祖父の膨大な著書目録が出ていて、またまたびっくり致しました。
 父は戦時中仙台に疎開しておりましたが、新婚の母とともに一時東京に戻り、父親の著作を荷造りしては疎開先に送り出したと聞いております。そのようにして避難させた書籍類も、今ではどれだけ家に残っておりますことか。
 以上長々と失礼致しました。

 伊藤克〈イトウ・カツ〉さんという翻訳家のことは、存じ上げなかった。この方が、伊藤尚賢さんの娘さんであることも、もちろん初めてうかがった次第である。国立国会図書館のデータを、この名前で検索すると、計二五件がヒットし、うち二四件が翻訳書、一件が著書である。その一件の著書が、『悲しみの海を越えて』(講談社、一九八二)である。同データによれば、生没年は、一八九五~一九八六となっている。
 もし、「尚賢の孫」様が、ブログなどを持っていらっしゃるようでしたら、お父上の書き残された手記、「父の姉」の手になる「我が父病床の記」、伊藤克さんの『悲しみの海を越えて』で割愛された箇所、あるいは今日残っている伊藤尚賢さんの蔵書、などを紹介していただけたらと思う。

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コメント (4)
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