◎清水幾太郎の文章術について
当コラムでは、何度か清水幾太郎という人物を採り上げてきた。どちらかと言えば、否定的な紹介が多かったと思うが、今日は、肯定的に紹介してみたい。
というのは、岩波書店編『古典の読み方』〔「岩波文庫創刊二十五年記念」非売品〕(一九五三)に、清水幾太郎の「古典」という文章が載っているのだが、これがなかなか読ませるのである。
一五ページに及ぶ文章のうち、その五分の一弱を紹介してみよう(二七~二九ページ)。
読者は、新聞や雑誌の一隅で、映画、著書、論文などの批評を読むであらう。さういふ批評の大部分は、映画の場合なら、カメラが暗い、テンポが少し緩いといふ調子、それから、著書や論文の場合だと、後半がダレてゐる、よく纏まり過ぎてゐる、優等生の答案のやうだといふ調子である。つまり、技術的な側面の批評なのである。そして、その半面、当の映画や文章の内容である問題、例へば、戦争や平和の問題、基地経済の問題、植民地的文化の問題、一つ一つ、私たちの胸に突き刺さるやうな問題についての評言は全く見当らない。これ等の問題が重要なのか否か、それが正しく取扱はれてゐるか否か、どういふ実践的帰結を伴ふのか、抑々〈ソモソモ〉批評家自身の意見はどうなのか、これ等の点については一言半句も書いてない。この流儀の批評文が実に多い。そして益々多くなつてゐる。批評家たちの関心は専ら技術的側面に向けられてをり、しかも、稀な例外を除くと、誠に秋霜烈日、ダレてゐる、纏まり過ぎてゐるといふ類〈タグイ〉の評語を総動員して、現代の作品を叩いてゐる。ひどく点が辛い。と同時に、内容への完全な無関心のために、滑稽な話だが、戦争や平和、基地経済、植民地的文化、これ等の問題自身がダレたり、纏まり過ぎたりしてゐるやうになつてしまふ。イヤハヤ。だが、一般に、現代の大問題といふものは、最初は個人の経験の平面に現はれ、次に作品の平面に表現され、これによつて、社会的な規模のものになるのだが、作品の平面に上る途端に、待ち構へてゐる批評家の手にかかつて退治られるとなれば、批評家たちは、私たちの運命に関する問題の提出と解決とを妨げるために存在することになる。実際、技術的批評の用語を操るのが批評家の仕事であるのなら、批評家は、戦争や平和、基地経済、これ等の問題について知識を持たなくても信念を持たなくても、楽に仕事が出来るのである。
現代の作品に対する批評家たちの冷たい態度、これを逆転させると、古典に対する態度、彼等の温い態度といふことになる。勿論、批評家だけでなく、批評家を代表者とするインテリ全体に見られることであるが、古典に対しては誠に温い態度、といふより、無条件降伏なのだ。一辺倒なのだ。誰が古典を賞讃しないてあらうか。誰が古典を推薦しないであらうか。批評家の真似をして現代の作品を冷たく審いてゐたインテリは、今や、全く別人になる。技術的側面に関する批評の用語は忽ち姿を消してしまふ。批評の余地がないほど完成してゐればこそ、古典なのであらうか。しかし、私などの眼から見ると、ダレて冗漫になつたり、纏まり過ぎて難解になったりしてゐる古典はいくらでもある。けれども、批評家はそんなことは言はぬ。それから、古典の取扱つてゐる内容、これも批評家は尊重する。そこに大きな問題が潜んでゐる。永遠の意義がある、等々。要するに、無条件降伏なのだ。私は、かういふ批評家やインテリに接するたびに、目下の人間に向つては威張りちらしながら、目上の人間にはペコペコする人物のことを思ひ浮べる。何れにしても、古典を賞讃し推薦しておけば無難なのである。その価値は自分が証明しなくても、歴史が証明してくれる。自分が責任を負はなくても、過去が責任を負つてくれる。こんな楽な仕事はなからう。だが、私自身の経験から言へば、賞讃し推薦する人たちが、本当に興味を以て、古典を通読してゐるとは信じられない。時代や伝統の差のために、多くの古典は堅い殻に包まれてゐる。これを噛み破るのには、生きた問題に心を掴まれた人間の、あのガツガツした精神の食欲、鋭くなつた精神の牙、さういふものが要る。この条件はさう簡単に生れるものではないし、権威の前に叩頭するやうな態度とは絶対に相容れない。賞讃し推薦する人々自身、正直な興味を以て古典を読んででゐない場合がかなり多いやうに思はれる。
文章もうまいし、指摘にも説得力がある。「一言半句も書いてない」という時の「書いてない」は、普通の文筆家なら「書かれてゐない」とするだろうが、こういう表現で、砕けた雰囲気を演出している。このことは、「イヤハヤ。」という挿入、「ペコペコする」といったカタカナ表記についても言える。
「批評家」の常套手段を話題にしながら、「古典」が持つ性格を浮かび上がらせるというやりかたもユニークである。こういう文章が書けた清水は、間違いなく才人だったと思う。【この話、続く】