◎神吉晴夫が語る「英語に強くなる法」
神吉晴夫〈カンキ・ハルオ〉と言えば、カッパブックス、カッパブックスと言えば、不滅のベストセラー、岩田一男著『英語に強くなる本』(一九六一)を思い出す。
しかし、本日、紹介したいのは、神吉晴夫自身が語っている「英語に強くなる法」である。これは、神吉晴夫が、自著『カッパ兵法』(華書房、一八六六)の第五章で語っている話である。早速、引用に移る。
英語に強くなる法
アメリカの辞典には日本語が書いてない
岩田一男さんの『英語に強くなる本』は、パンのように、売れた。発売わずか七十日あまりで百万部を突破するという、戦後の日本出版界の記録的な大ペストセラーだ。
この『英語に強くなる本』を企画し出版した私だが、その昔、中学一年の一学期で英語の成績は、十点満点での三点。落第点を下まわる、英語に弱い少年だった。
白鷺城〈ハクロジョウ〉で名高い姫路の町から汽車で東へ三十分、国鉄宝殿〈ホウデン〉駅の北方一キロあまり、兵庫県印南〈インナミ〉郡西神吉村〈ニシカンキムラ〉鼎〈カナエ〉字長慶〈アザ・チョウケ〉(現在は加古川市に編入)という田んぼの中の、十軒そこそこの寒村に生まれた私は、県立姫路中学校に入ってはじめてA・B・Cをおそわった。PとR、MとNの文字の区別さえ、なかなかのみこめなかった。はじめての試験の成績が、落第点の三点でも無理はなかったと思うのだが、私はこの三点で、すっかり英語コンプレックスにとりつかれてしまった。
「なにくそッ」、田舎少年のド根性である。私はがんばった。毎日、汽車通学の行きかえりはもちろん、夜おそくまでリーダーにかじりついた。大正時代にはいったばかりの農村のことだから、まだ電燈はきていない。私が眼を悪くして近視〈チカメ〉になったのは、石油ランプの暗い光で勉強したためだろう。その努力が実って、三年生のときには、やっと七点まで漕ぎつげた。
三年生といったら、もうそろそろ上級学校への進学準備の年である。私の父丈之助は、私を東京帝国大学(いまの東京大学)の法科か政治科に進学させたかったようだ。父の、次男坊晴夫にかけた夢は、帝大出の法学士になって故郷〈クニ〉の印南郡長から兵庫県知事へ出世してもらいたいことだった。しかし、<期待される人間>の私自身、英語が七点では、どうにもならないではないか。
もうすぐ夏休みというある日、私は思いあまって、英語の先生をたずねて相談してみようと決心した。その先生は山田宇三郎といい、数年前亡くなられたが、英文解釈や英作文など、中学生の受験参考書の著者として、全国的に知られていた。
「おかげさんで、やっとこ七点までとれるようになりました。けど、僕には、どうしても十点満点がとれまへん。どないしたら、よろしまっしゃろか。」
そのころの中学校の先生の多くがそうだったように山田先生もドジョウヒゲをはやしていた。先生は、この英語に弱い生徒の言葉に耳をかたむけていたが、やがてこういった。
「おまえの姉はん〈ネエハン〉は、大阪へお嫁にいってんのやったな。」
「へえ。こんどの夏休みに、僕〈ワイ〉、大阪へ行きまっせ。」
「そりゃ、ええ。大阪の心斉橋筋〈シンサイバシスジ〉ちゅうの知っとるか。そこにな、丸善ちゅう本屋があるんや。丸善で、辞書ひとつ買うて〈コウテ〉くるんやな。」
「どんな辞書だす。」
「アメリカの辞書で、ウェブスターのベスト・ポケット・ディクショナリーいうんや。」
「日本語〈ニッポンゴ〉で書いたりまっか。」
「アホやな、おまえ。アメリカの辞書に日本語が書いたるはずないやないか。英語だけや。」
「そんな辞書で、どないなりますねん?」
「なんでもええワ、買うといで。」
夏休みになると、さっそく私は大阪の丸善へ出かけて行った。洋書売場は二階にあった。店員にたずねると、すぐ一冊の辞書をもってきた。みると、豆本〈マメボン〉のようなこの小型の辞書にはVest Pocket Dictionaryとある。私は、山田先生の言葉からBestの(最良の)辞書だと思いこんでいたから、びっくりした。私にはbest とvestの発音の区別もつかなかったのだ。たしか、一円十銭だった。【以下は次回】
それにしても、文章がうまい。わかりやすいし、おもしろい。要所要所にルビが施してあり、読者への気配りがうかがえる。山田先生との会話のところは、ほとんど、落語か漫才の世界である。さすがは、次々とベストセラーを生み出した編集者だけのことはある。