礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

柔術のルーツは同心、岡っ引の捕縛術

2015-04-23 06:59:50 | コラムと名言

◎柔術のルーツは同心、岡っ引の捕縛術

 今月二〇日の鵜崎巨石さんのブログに、『嘉納治五郎 わたしの生涯と柔道』(日本図書センター、一九九七)という本の紹介があった。この本をまだ読んでいなかっただけに、興味深い記事であった。
 同記事によれば、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、初期の講道館の雰囲気について、次のような回想をおこなっているという。
《何万という講道館員の中には、乱暴したものもあり、喧嘩したものもあり、中には不道徳な罪を犯したものさえもある。もし講道館が彼等を世話しなかったならば、この不都合者は、はるかに、より以上以上多かったであろうと考える。講道館というものが、社会の乱暴者をできるだけ、訓化善導し得たと見るのが至当である》
 よく知られている通り、柔道といういう言葉は、嘉納治五郎が普及させたものであり、それまでは「柔術」と呼ばれていた。江戸時代においては、この柔術は、剣術や弓術に比べて、武術としての地位が、数段、低かったらしい。その柔術を柔道と改称し、その後、「剣道」に匹敵する「武道」の地位にまで引き上げたのは、まさに嘉納治五郎の功績であった。
 嘉納が回想するように、初期の講道館には、相当の乱暴者もいたようだが、こうした乱暴者が、既存の柔術諸派と対戦して、これを打ち負かし、講道館柔道の名を、世に知らしめたという見方もできなくはない。
 さて、先日、私は、近所の古本屋で、服部興覇著『図解説明最新柔道教範』(藤谷崇文堂、一九三三)という本を入手した。よくある柔道のワザの解説書のひとつにすぎないと思ったが、柔術・柔道の歴史についてもふれていて、そこに、かつての柔術は「不浄役人」が用いた「捕縛術」である旨の記述があった。
 柔術・柔道のルーツは、捕縛吏が伝承していた捕縛術ではないかということは、私もかねて考えていたことであり、「自説」を文章にしたこともあったが(二〇〇八)、昭和初期、すでに、同じ趣旨のことを書いていた人がいたことは知らなかった。以下に、当該部分を引用する。なお、著者の服部興覇〈ハットリ・コウハ〉は、講道館員、二段である。

 第三編 結 論
 第一章 柔道の史的観察
 【前略】
 それまで、乃ち〈スナワチ〉文学が隆盛期にある時武芸、殊に柔道は如何なる地位に置かれてゐたか、家光の時世に、渋川伴五郎、関口八郎が江戸市内に門戸を張つて、相当の隆盛を極めて居たが、その門弟は如何なる種類の人であつたか、余は独断的に左〈サ〉の如き考証を発表して先輩の示教〈ジキョウ〉を得んと思ふ。
(一)門弟は役人……それも同心以下所謂〈イワユル〉岡ッ引〈オカッピキ〉の類〈ルイ〉だらうと思ふ。
(二)門弟は町人の若い衆
であつたらうと思はれる、当時柔道は柔術の部類に入れられる可き(無手〈ムテ〉或は短かき武器を持つて、無手或は武器を持つ敵を、防ぎ又攻る〈セメル〉)技で、重に〈オモニ〉関節を挫いたり〈クジイタリ〉、突き殺したり、当て殺したりする術〈ジュツ〉で、体育的とか道徳的とかには余程かけ離れた未開発の柔術であつた。而して此の技を撮も必要とする、生活の根拠である職業上から盛んに稽古をしたと思はれるのは、罪人〈ザイニン〉を縛る役目の同心、岡ッ引たる人々であらう。彼等にはこの技がとつて付けた程必要であつた。何故〈ナゼ〉なら十手〈ジッテ〉と称する短かい武器を持つて長刀〈チョウトウ〉を振り翳す〈フリカザス〉罪人をも捕縛しなくてはならない、それには此の柔術は持つて来いの便利な技であつたから。
 それから町人階級の若者である。彼等は何時〈イツ〉特権階級たる武士から生命を脅威〈キョウイ〉されない共〈トモ〉限らない。それの予防として柔術を修めて置く事は決して徒労な事ではなかつたらう、で彼等は機会の許す限り柔術をほんの少々を知つて置きたい願望に燃えてゐたに異ひ〈チガイ〉ないが、後者の修業は余り熱心でなかつた。それは諸種の事情にも依らふが、前者の修業程度及心掛〈ココロガケ〉に比較すると余りに低級であつた。故に柔道の修行者の大半、並びに其活用者は警察役人であつたとも云へる。
 徳川時代の柔道は斯うした〈コウシタ〉種類の人々によりてその存在を持続してきた。其時多少の盛衰はあつた。之又余輩の独断的観察に依れば、幕府の諸大名に対して武芸圧迫のハケ口として角力〈スモウ〉が徳川政府の中期に勃興した、当時に在つて角力流行の関係から柔道も、相当盛んであつたやうに思はれる。又投技〈ナゲワザ〉を専らとする起倒流が抬頭して書た、これは角力の刺戟〈シゲキ〉に依る関係があるやうに想像される、起倒流の如き上品な流技が出現するやうになると漸く〈ヨウヤク〉社会の視聴を集めるやうになつて、各藩主は次第に柔道指南番を抱へる〈カカエル〉やうになつた、従つて柔術は、不浄役人の手から諸藩の武士に開放されるに至つたのであるが、剣道と比較する時は、未だ柔道は継子〈ママコ〉扱ひにされてゐる傾向に在つたと考へる、而してその原因としては柔術が今日の柔道の如く完全に近い発達を遂げてゐなかつた、いづれも技芸【ワザゲイ】の種類が僅少で、而も危険で、且単純だつた上に諸流まちまちに部分的な事を教授してゐた故であらうと思ふ。
 斯く〈カク〉徳川三百年の歴史に於て、柔道が占めてゐた地位は、たいしたものでなく、奉行下役人〈シタヤクニン〉及諸藩内の少数者の雑多の流儀を伝襲して、世は明治大帝の御統制遊るゝ〈アソバサルル〉社会へ移動した、
 政治組織の変革と共に、幕府は滅亡し武士も廃亡した。そして普通人が帯刀をする事が禁ぜられ、立憲君主国への道程に進まんとする明治初期に於ては、剣術は武士階級の廃亡と共に衰微し、柔道又之に軌を一〈イツ〉にするを余儀なくせしめられるに至つた。
 柔道は観覧料を取つて見物の慰めの道具に興行されるやうな悲惨な堕落をした、又各流儀の残党は時勢に適しない技術を只大事相〈ソウ〉に守つてゐるに止まり〈トドマリ〉、創作的意気と、昂然〈コウゼン〉たる研究に進む気慨を失なつて惰力のやうに生きてゐる時、敢然と奮起し柔道を今日の発達をなさしめた人、それは余人〈ヨジン〉たらず現講道館師範嘉納治五郎〈カノウ・ジゴロウ〉氏である、柔道は嘉納氏の出現に依つて再生した、氏の講道館柔道は現在までに存存してゐた諸流の技の長所を今日の時勢に適合するやうに改良して採用し、之に加ふるに自己の創案した技を加へ、尚且柔道の道徳を教授される、総合的真〈シン〉の柔道である。

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