◎投身から42日、藤村操の死体あがる
昨日の続きである。山名正太郎の『思潮・文献 日本自殺情死紀』(大同館書店、一九二八)から、「藤村操の自殺」について論じている箇所を紹介している。
昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。
藤村操は、かれの叔父さんが証明してゐる通り、当時十八歳の紅顔の美少年であつた。但し遺書には『五尺の小躯』とあるが、当時までに五尺五寸〔約一六七センチ〕余の男であつた。一高の予備校に入つたのは自殺する一年前の十七歳の春であつたが、教科書などは飽き飽きしたといつた風で、よくある例であるが、文学書類を乱読した。快濶であつた彼の生活に沈みがちの日がうちつゞくやうになつてきましたのもそれからであつた。しかしこの種の人によく見受る〈ミウケル〉やうな、アブノーマルな行為はなかつた。
かれの叔父さんがものした痛哭文は当時の萬朝報〈ヨロズチョウホウ〉に載つてゐる。突嗟のうちに、しかも涙にぬれて書きつけられたものであるが、かれの家出の前後から死の模様などが委曲をつくされてゐる。叔父さんといふは、那珂通世〈ナカ・ミチヨ〉といひ、当時文学博士で東京高等師範学校の教授であつた。那珂博士ば、自転車博士の異名で全国にひろく知られてゐた。当時にあつては自転車は極めて珍重されてゐたが、同博士はこれにのつて全国を輪行したのである。かの華巌の瀧事件が勃発する前にも、九州一周をやつてゐた。
かういふ事件があると、きつとそんな話が出てくるものですが、『さうさう、さういへばわしはあの日、書生風の袴をつけた若い男が、風呂敷包みをもつて上つて行つたのを見た。』といふ村人が出てきた。中には、『いや、わしは上から飛込むところを確かに見た。』などいふものさへ現はれてきた。
巷説では、『藤村操といふ男、あれは華巌の瀧で投身自殺したと見せかけて、実はまだ生きてゐるんだ。何でも満洲で炭坑夫になつて働いてゐるさうな』と今でも時おり聞くことがあるが、彼が絶筆をのこして自殺を遂げたのは、とにかくも間違ひはない。しかし当初は藤村操の死を疑つてゐた人もずゐぶん多かつたやうである。新聞の報導にも『投身したるものと信ぜらるゝことは』などゝかいてあつた。それも畢竟〈ヒッキョウ〉は彼の死体が上らなかつたためであるが、一方からいふと、彼の死体が発見されなかつたので一層その死が痛快がられたのであつた。
しかるに、皮肉といはうか、自殺を遂げた日から四十二日目の〔一九〇三年〕七月三日に、彼の死体が浮き上つた。そし。て田口巡査部長の検印のすはつた検死調書さへ、りつぱに添へられてある。さきにはその死を逸早く伝へなかつた新聞も、こんどは四号見出しで『死体上る』と報じてゐた。【以下、次回】