礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藤村操を「意志薄弱の徒」と非難するものもあった

2016-01-17 06:58:33 | コラムと名言

◎藤村操を「意志薄弱の徒」と非難するものもあった

 昨日の続きである。山名正太郎の『思潮・文献 日本自殺情死紀』(大同館書店、一九二八)から、「藤村操の自殺」について論じている箇所を紹介している。本日は、その三回目。
 昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。

 それはさておき、天下にわれと思はん自殺志望者が雲霞の如く華巌の瀧めがけて押しよせてきた。〔一九〇三年〕六月十八日に京都荒川町堀尾良一(二十九)を筆頭に、
 △七月十三日年齢二十歳前後の男一人△同三十日大阪、波方金次郎(二十二)△八月一日十八、九歳の男一人△同日二十五歳位の男一人△同日神尾喜市(十七)△同五日二十歳位の男一人△九月二日福島県伊達町齋藤保之(二十一)△同四日女一人△同十八日東京府八王寺〔ママ〕男一人△十一月十四日熊本県下益城郡〈シモマシキグン〉相良未喜(二十二)
の十一名がいづれもつぎつぎに同所で投身をとげた。原因は精神異常となつてゐるがこのほか、投身せんとして危く捕まつたのが十五名まで書きつけてある。みな男子で十八、九歳から二十四、五歳までのものである。
 中に滑稽なのは、生ける屍としやれ込んで、名文を大書した遺書を掲げて死ぬるつもりでない若者が過つて巌頭から顛落して助かつたといふのがある。かうして年と共に自殺者が殖えて行き、引きつゞき今日に至るも華厳行が絶えぬところをみると、何といつても、かの『いういうたる哉』の絶筆が二十四年間、自殺者のこゝろを呼んでゐることは明らかな事実である。
 かうなると世論はいよいよやかましくなつてきた。ことに新聞雑誌はおのおの筆をとつて、これが論評を加へた。或は藤村操の死を『虚栄的狂作』となすものがあつた。『不健全な思想の発動だ』と叫ぶものがあつた。『哲学を研究するものではない。何故なら、自殺するやうになるから、と後世の人々をして思はせるのが遺憾だ』といふものがあつた。『汝〈ナンジ〉人たれ、然して人以上を望むこと勿れ』と教へを垂れるものもあつた。『まことに不真面目極まることである。万有の真相がわからぬなどゝいつて死ぬるは、これ忘想の犠牲である。人生不可解といふが、死んだ当人はまだ十八の乳臭児ではないか。これでは哲学研究も聞いてあきれる。かの釈尊さへ三十にして未だ悟らず三十五にして始めて大悟したではないか。況んや凡人をや。元来、学問の目的は常識をつくるに在る。しかるに藤村操なるものは全く常識がない。巌頭の感などゝ、あの気どつた文章は何であらう。全く彼は意志薄弱の徒である。かういふ輩〈ヤカラ〉は思ふまゝに死なしめよ。不道徳漢の面上にわれは唾しても足らない。彼は少年の癖に「万有の真理がわからぬ」といふが、世界はかくの如き馬鹿ものに幽玄にして神秘を解決してもらはなければならぬ理窟は毫もない。或はいふものがある。彼は自己に忠実であつたと。何といふほめ方だ。哲学と狂気、哲学と自殺――こんな問題がどこにあるか。』と猛烈に罵倒するものもあつた。【以下、次回】

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