◎中国の民衆と社会を記録した後藤朝太郎
昨日に引き続き、劉家鑫さんの論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、一九九七年三月)を紹介する。同論文は、「はじめに」、「一、後藤朝太郎その人」、「二、『大陸浪人』と『支那通』」、「三、後藤朝太郎の中国認識の特質」、「四、後藤朝太郎研究の視覚」、「むすび」の六節によって構成されている。本日、紹介するのは、「四、後藤朝太郎研究の視覚」。
四、後藤朝太郎研究の視角
後藤朝太郎についての研究書はない。その著作のみが「参考文献」となる。後藤は生涯のうちに、百冊以上の著作を書き残した。その三分の一は中国の言語に関するものであり、後の三分の二は中国の社会、政治、伝統文化、民族性、特に庶民生活などの諸問題を観察し分析したものである。
後藤の著作は、極めて繁雑でかつ駄作も多かったので、これまで文学研究者はあまり彼を取り上げなかったし、また歴史の事実とくに具体的な事件や人物、時間や場所があまり出てこないので、歴史・社会学者もせいぜい彼の著作を、一部歴史背景の傍証資料として使用しただけである。いずれも真っ正面から彼の著作を研究対象としたことはなく、いわゆる無視される傾向にあった。
そして後藤の著作は、決して高貴古雅なものではない。著作というよりも、むしろ大陸旅行記、中国リポート、エッセイ集と言って相応しいようなものがたくさんあった。三石の言い方では「後藤朝太郎の文章がだらだらと現象を羅列するのに反して、〔井上〕紅梅の文章は分析的、求心的で説得力がある」。まさに氏の批評は的確だと思う。
しかし後藤の作品は、当時の中国を多面的に描写している。ある意味で言えば、民国時期の小百科全書の役割を果たしていると言っても過言ではない。現在において、民国時代の社会状況や日中関係、とくに本世紀〔二〇世紀〕20~40年代の日本知識人による中国観の研究に、少数派文人の一典型という点で、歴史的意義のある資料を提供している。彼が如実に中国の社会事情を記録し、終始、当時の中国民衆をめぐって、その観察眼を各方面に向けさせたことは非常に独特なところである。つまり彼の観察、記述、分析の力点はいつも目前中国の社会と民衆にあったのである。民衆と社会という要素を彼の政治・社会観、庶民の経済生活鑑賞、土俗的民族風習、伝統文化観および日中関係論など、中国観のあらゆる方面に貫いている。
以上のことから今後の後藤朝太郎研究において、幾つかの方面からの分析が可能になる。たとえば、前述で示した通り、①国家と社会の乖離〈カイリ〉、②民衆と経済生活、③古き中国と伝統文化、④日中関係のあり方などである。それらは見本になり、後藤朝太郎の中国認識についての批評の始まりになる。またほかに、中国民衆と風俗習慣や軍隊・匪賊・土豪の関係、庭園文化や文物論考などに対しても後藤は多くのことを描いた。これらも研究すべきところである。
今後は後藤朝太郎の中国政治観、社会観、伝統文化観、庶民生活鑑賞、軍閥混戦期の社会組織および日中関係論の諸視角から研究を進め、その特質を分析していく。また一概に後藤の中国認識と称しても、その中国観が通時的に一様だったわけではなく、時代とりわけ民国時期の中国政治舞台の変動や日本の対中政策の変化と共に、ある程度の変貌を遂げてきていることも想像できる。つまりその中国観の変化にも留意しなければならない。
日本的風土に、日本的性格が生まれる。その日本的性格は、外殻と内殻の構造性をもっている。第一次大戦期から昭和10年代における対中国認識の場合、外殻として中国を尊敬するのであっても、内殻としては目前的中国を蔑視する傾向が圧倒的に強かった。日本人が中国を見る場合、伝統文化、古典精華、つまり古き中国を認め、評価ないし崇拝する一方、近代的な国民国家形成期における中国の立ち遅れに失望感を抱いた。目前的中国を蔑視したり、現実社会を否定したりした。すなわち、日本人による中国観には二重性の問題が存在している。
後藤朝太郎についての研究が進むにつれて、そのような二重性の間題も提起されるはずである。ただし、あながち彼本人がそのような裏表をもったとは限らないが、時代風潮の坩堝〔ルツボ〕の中に生きた彼が、どのようにそれを克服して日中間の障壁を乗り越えようとしたかを分析するのは歴史的意義がある。
後藤朝太郎については、まだまだ紹介したいことがあるが、明日は、いったん話題を変える。
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