礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

アメリカの飛行機が東京を空襲するのでは

2019-01-05 01:07:26 | コラムと名言

◎アメリカの飛行機が東京を空襲するのでは

 昨年の一二月、高円寺の古書展で、伊藤行男著『随筆 船医手帖』(日新書院、一九四一年三月)という本を入手した。深い考えなしに買ったが、家に帰って読んでみると、予想以上に面白い本だった。
 本日は、この本の中から「泥縄」というエッセイを紹介してみたい。「余外集」の部の「アルファ・ガムマア」の章の最後に置かれているエッセイである。

  泥  縄
 マッチの箱一つが容易に手に入らないなどといふことは、子供の頃から考へてみたこともなかつた。おそらく、どんな貧しい暮しをしてきた人にも、マッチは最も手にいり易いものゝ一つであつたであらう。特に、この三、四年来は、マッチは、あり過ぎてうるさいくらゐであつた。その想像も及ばないことが現実となつて現はれてきた。
 ソビエートには、物資が不足して靴一つ満足にはいてゐる者もないと、夢物語のやうにきいてゐたが、これは決して対岸の火災視してよいことではない。ドイツは、戦争が始まる前から既に物資の統制をやつて、先々のことを考へてゐたやうであるが、我が国は戦争を始めてから二年も経つて漸くあはて出したやうである。
「泥棒をみて縄をなふ」と云ふ言葉が古くから伝はつてゐる。泥棒が来てからでも、縄になふ藁があればまだよいが、その藁もなくなればおしまひである。
 よもや、東京の上空に飛行機がとんで来るやうなことはあるまいと多くの人が思つてゐる。これはよもやマッチなんかが、なくなることはあるまいと思ふのと同じことである。多分、アメリカの飛行機が、真先に東京を空襲するのではあるまいか。それが現実となれば、防空演習で、ばけつの水を汲んで走ることより、都市の建築の強靱であることが、どんなに必要であるかを、今更、痛切に感じるに違ひない。
 東京が空襲されゝば、静岡の火災以上であらう。大震災の後は、現在のやうに資材不足の時代ではなかつた筈である。欧米の都市は大火災の後には必ず二度と燃えない街をつくり上げた。口ンドンの街は、イーストエンドの貧民街でも燃えない建築である。東京は、折角の大震災と云ふ機会があったのに、銀座のまん中でも、べらべらだ。空襲だけではない。地震だつて、明日にもあるかわからないのである。
 大火災があつたり、大水害があつたりすると、その当分は、それに就いての対策がとやかく云はれる。それが、いつのまにか、たち消えて忘れられた頃、また元のまゝのやうなものが再現する。静岡の復興だつて、どこまで考へられたことが実行されるか疑はしい。「喉元すぎれば、熱さを忘れる」と云ふ良い文句を知つてゐる国民らしくもない。鉱山や鉄道の事故が、丁度、喉元を過ぎた頃になると新聞の社会面のトップを飾り立てる。
 マッチがなくなる以上に怖しいことである。

 ここに、「静岡の火災」とあるのは、一九四〇年(昭和一五)一月一五日に静岡市内で発生した、いわゆる「静岡大火」のことであろう。この『随筆 船医手帖』という本には「まへがき」があり、その日付は、「皇紀二千六百年十二月二十日」となっている。すなわち、一九四〇年(昭和一五)一二月二〇日である。
 これらから、この「泥縄」というエッセイが書かれのは、同年の二月から一一月の間だったのであろう。日米開戦は、それより、少なくとも一年以上あとの、一九四一年(昭和一六)一二月八日のことだった。また、ドーリットル空襲があったのは、それよりも、さらに四か月を経た一九四二年(昭和一七)四月一八日のことだった。
 一船医たる伊藤行男が、一九四〇年の段階で、日米開戦や東京空襲を予言し、そのことを公言していた。この事実は、あまり知られていないと思う。ここに紹介してみた所以である。

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