◎京都で「金融緊急措置令」を知った村田守保
昨日、村田守保さんの『日本切手精集――村田守保コレクション』(日本郵諏出版、一九七八)を再読してみた。この本で興味深いのは、やはり「わたしの収集50年」である。
その「わたしの収集50年」の中に、一九四六年(昭和二一)に実施された「新円切り替え」の話が出てくるので、本日は、これを紹介してみよう。
昭和21年(1946)の、1月ももう終るころでした。私は京都駅に朝早く着きまして、リュックにいっぱいの、装身用提げ鎖をかついで、商人宿に足をのばしました。女中さんの運んできた、朝めしの箸をとりながら、新聞に目をやった瞬間、あっと思わず声をたてたのでございます。
それは旧円と、新円の切換えのことが報道されて、来る2月17日までに、旧円は全部預金をして、浮動現金を封鎖預金とするということでございます。私は早々に宿を出ると、ある時計店へ立寄りました。そこの店主はすでに、この金融緊急措置令を知っていたとみえ、鎖を全部買いたいと申します。私もそのほうが身軽になってよいと、すっかりお金に換えてしまいました。といっても当時の旧円で5,000円ほどでございました。
「新円切替」について、ウィキペディア「新円切替」の項は、まず、次のようにまとめている。
新円切替(しんえんきりかえ)とは、1946年(昭和21年)2月16 日夕刻に、幣原〔喜重郎〕内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称である。
同項は、さらに、「概要」のところで、こう説明している。
……この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日の17日より預金封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、1946年3月3日付けで旧円の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を500円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。これらの措置には、インフレーション抑制(通貨供給量の制限)とともに、財産税法制定・施行のための、資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。このとき従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのがA百円券をはじめとするA号券、いわゆる新円である。
この説明を読んだ上で、あらためて、村田守保さんの文章を読むと、どうも記憶ちがいがあったようである。
村田さんが京都に着いたのは、「1月ももう終るころ」ではなく、二月一七日だったはずである。その早朝、商人宿で朝刊を読み、金融緊急措置令のニュースに接する。すでに、その日から、預金封鎖がおこなわれている。さらに、きたる三月三日を以て、「旧円」が使用できなくなる旨が通告された。手持ちの旧円は、強制的に銀行に預金させられ、預金の引き出しは、一世帯あたり月に五〇〇円以内に制限された。
したがって、村田さんの文章にある「来る2月17日までに」は、「来る3月3日までに」とすべきところであった。
さて、新聞を読んだ村田さんは、すぐに「ある時計店」に向かった。金融緊急措置令を知っていた時計店の店主は、村田さんが持参した「装身用提げ鎖」を、全部買いたいと申し出た。旧円が使用できなくなる前に、「モノ」に換えておこうという計算である。村田さんが時計店に向かったのは、店主が、そういう申し出をするだろうと予想したからに他ならない。いずれにせよ、この時計店の店主は、五〇〇〇円を超える「浮動現金」を、持っていたことになる。
ところで、先日来、利用している時刻表(東亜交通公社発行『時刻表』昭和十九年十二月号、通巻二三五号)を見てみた。時期は少しズレるが、似たようなダイヤだったと仮定する。すると、前日に東京駅を発ち、早朝に京都駅に着く列車というのは、次の二本しかない。
・東海道本線33列車(東京駅始発、博多行き) 東京駅14:10発、名古屋駅23:06着、同駅23:14発、京都駅3:27着。
・東海道本線143列車(東京駅始発、大阪行き) 東京駅15:25発、名古屋駅23:59着、同駅0:11発、京都駅4:15着。
33列車のほうは、京都駅に着くのが早すぎる。おそらく村田さんは、143列車のほうを選んだのではないか。なお、どちらの便を選んだ場合でも、村田さんは、二月一七日に京都に着くまでは、前日の夕刻に発表されたという「金融緊急措置令」を知ることはできなかったと思う。