◎繃帯をとると膝から下に強度の浮腫が認められた
伊藤行男『随筆 船医手帖』(日新書院、一九四一年三月)から、そこに載っているエッセイを紹介しいる。本日は、その四回目(最後)。
本日、紹介するのは、「往診」。「船医手帖」の部に置かれている、いかにも「船医」らしいというか、「船医」でなくては書けないエッセイである。
往 診
印度のB港といへば、牛の糞が街路の上で乾燥して、ほこりとなつてまひ上るといつた街であるが熱帯の赤裸々もうづまいてゐる都市である。
ある夜、日本人の住む街から使ひの者が船にやつて来て、至急往診してくれと云ふ。とても痛みが激くて死ぬる思ひをしてゐるからとせきたてる。
使ひの者と共に、岸壁の出口で馬車を拾つて、よごれた白衣の群衆があふれてゐる下街を馬の足音高く走らせて行つた。馬車の止つた所は、日本人経営の料理屋の前であつた。料理屋といつても、料理のない料理屋であることは一目でわかるやうな家の軒下であつた。
病人は幾人かゐる抱へ女の中の一人であつた。女将〈オカミ〉らしい女が、同じやうな構へのある部屋の一つに僕を招じ入れた。窓際のベットの上で、浴衣の胸をはだけた若い女が、うめき声をあげながらのたうちまはつてゐる。女将は、この娘〈コ〉は、時々こんなことを起こすんです、また、きつと持病のしやく〔癪〕でせう、診てやつて下さい、と云ふ。診察してみると、想像通り胃痙攣であつた。一筒のモルヒネを注射すると、間もなく静かになり深い眠りにおちいつたので、そのまゝ船に帰つた。
翌晩また同じ家から迎ひがやつて来た。印度人の使者が、簡単な紙切に書いたものをもつて来たので、しやくが再発したものと思つて、再び往診鞄をかゝへて、馬車を前夜の料理屋の前に止めた。すると、前夜、青ざめて苦しんでゐた女が厚化粧して玄関に出迎へてゐるのには驚いた。それも、礼を云はれてみてはじめて気づいたことである。こんどは、別の病人でもできたのかと思つてきいてみてもそれらしい様子はなく、女はにやにや笑つてばかりゐる。そして今夜は昨夜の御礼に、いさゝか御馳走したいといふ申出である。更に、今夜は是非船に帰らないで泊つていつてくれと云ふ。あまりに熱帯的な申出であり返礼である。これには、いさゝか当惑してしまつた。すげなく帰るのもどうかと思つて、いっ時を女達と共に、ビールの盃を乾して過すことゝした。しやくを起した女は、これでは、しやくを起すも無理がないと思はれる程よく飲んだ。女は、得意の唄だと云つて串本節を唄つた。その郷土色のある唄ひぶりからみると、女は紀州生れで、串本節の中に成長したのであらう。
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濠洲〔オーストラリア〕のシドニー港に淀泊中、或る日、市内在住の一日本人が船の医務室を訪れて来た。市立病院に入院してゐる患者を往診してくれといふ願ひである。
自動車を市立病院に走らせてみると、完備した明るい五十人も入りさうに思へる病室の一隅に、一人の若い日本人が臥床〈ガショウ〉してゐる。型のやうに診察して行くと、心臓に少し異常がある他に両下肢をみると太々と繃帯がしてある。繃帯の下には、頑丈な副木【シーネ】があてゝあるが、とつてみると外傷ではなく膝から下に強度の浮腫をみとめることができた。英人の受持医員に聞いてみると、尿には蛋白も出ないし、腎臓は悪くない、どうも診断がつかないと云ふ。
これは明かに脚気〈カッケ〉の症状である。既往症をきゝ、更に詳しく診るともはや疑ひはない。患者自身も、さうではないかと想像してゐたと云ふ。ところが、受持の医員には、脚気もベリベリ〔beriberi〕も一向に通じない。彼の頭の病名帳には、ベリベリが欠けてゐるらしい。そこで止むなく、脚気の定義やら治療法やらを下手なブロークンな英語で講義しなければならなかつた。それで、漸くその若い英人医師は、脚気のアウトラインだけは解つたやうであつた。
下肢の浮腫に、副木をあて、安静にすることは、いかにも英国人らしい好みである。
船の医務室にあつたヴィタミンBの注射薬と内服薬の一部を病院にとぐけさせて、シドニー港を後にして、ニュージーランドに向け出港した。
その後、二ケ月くらゐたつて、神戸に入港した際、シドニーの患者からの全快通知が待つてゐた。