◎中江藤樹の陽明学と石田梅巌の心学の関係
年末に書棚を整理していたところ、『心学道話』第四四号「東北心学研究」(一九三二年一〇月)という古雑誌が出てきた。
中に、井上哲次郎述「心学に対する感想と希望」という文章がある。
この井上哲次郎という人が、いわゆる「御用学者」であったことは知っていた。御用学者であったにもかかわらず、「三種の神器」に関して筆禍事件を起こし、「あらゆる公職から追放せられ」たということも聞いたことがある(瀧川政次郎『日本歴史解禁』三四ページ)。しかし、その井上哲次郎の文章というものを、これまで、ほとんど読んだことがなかったので、どんなものか読んでみた。なお、この文章は、「井上哲次郎述」とあるので、本人の口述を、記者がまとめたという可能性もある。
一読してみたところ、平明で無駄のない語り口の中に、該博な知識とオリジナルな視点とが盛り込まれており感心させられた。僭越な言い方ではあるが、この井上哲次郎という哲学者を、やや見直したのである。そこで本日は、この「心学に対する感想と希望」という文章を紹介してみよう。ただし、かなり長い文章なので、何回かに分けて紹介する。
心学に対する感想と希望 井 上 哲 次 郎述
心学は徳川時代の中頃、その源を京都に発し、殆んど日本全土に広まつた通俗的・総合的商業道徳とも言はるべきもので、もつと広い見方によれば、日本特有の実業道徳とでも言ひ得るであらう。
一体、この心学は何等の系統的関係なしに、卒爾〈ソツジ〉として起り来つた〈キタッタ〉ものであらうか。こゝには甚だ興味多い問題が存すると思ふ。
元より心学は石田梅巌〈イシダ・バイガン〉の独創の見に出でた〈イデタ〉ものではあるが、然し、中江藤樹〈ナカエ・トウジュ〉・熊澤蕃山〈クマザワ・バンザン〉等の江西学派〈コウセイガクハ〉との間に、思想的関係が少しも無かつたのではないやうである。例へば、藤樹門下の淵岡山〈フチ・コウザン〉がその著示教録の中に、最近起つて来た心学は陽明学派に関係を有するものであると、論じてゐるが、是等は心学の発生に対する一つの有力な証言であらう。事実、江西学派には通俗的な著書はかなり多いし、中でも藤樹の翁問答〈オキナモンドウ〉の如きは、その好適例のものである。試みにこの翁問答と石田梅巌の都鄙問答〈トヒモンドウ〉とを比較して見ると、表題と云ひ、体裁〈テイサイ〉と云ひ、内容と云ひ、余程似通つてゐる点があるので、そこに何等か関係のあるやうに思はれる。尚ほ熊澤蕃山の著書に至つては極めて平易なものみで、漢文式のものは一つもなかつた。
一方、官学の朱子学に対し、民間に於いて陽明学を以て興つて来た是等江南学派の思想の中には、既に神儒仏三教一致的萠芽が多分に含まれてゐる。江西学派と心学派との関係に就いては、予は嘗て〈カツテ〉雑誌『陽明学』(東敬治〈アズマ・ケイジ〉氏発行)の中に詳しく論じて置いたから、こゝには再述の煩〈ハン〉を避けたい。とにかく此の江西学派が、やがては心学道話の発生を促したものゝやうに思はれる。
一体、心学なる名称は朱子学派に於いても用ひられたものであつた。けれども、天地万象〈テンチバンショウ〉の一切を研究し尽して、その帰結の示す所に拠つて以て進むべき道を見出さうとする朱子学よりも、端的に良知を明かにして向上発展に資しやうとした陽明学の行き方は、心学の名に一層ふさはしいものゝやうである。是等は藤樹や蕃山の文集を『心学文集』と題した事からも、容易に立証し得らるゝことであらう。
又、藤樹の没後その高弟淵岡山は、京都に於いて陽明学を講じ、その門下には世に名を成す者も少くなかつた。何時かはそれ等の影響を石田梅巌が受けたものではなからうか。
京都に起つた此の心学道話が、時と共に波紋して殆ど日本全土に普及した事から、之を教化運動とも倫理運動とも言ひ得るであらうし、此の運動が当時の社会に及ぼした感化が如何に広大であつたかも想像し得られる事である。然らば何故に心学がかくまで当時の社会に受け容れられたのであらうか。こゝに於いて我々は当時の民衆と教育との社会関係の中に当然心学がそうした普及力を持つに至つた原因を見出し得るのである。【以下、次回】