礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大本営の議と御前会議

2020-04-22 02:53:01 | コラムと名言

◎大本営の議と御前会議

 タマタマ、瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)の『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を読んでいたところ、「大本営の議と御前会議の関係」について言及している箇所があった。第二章「大本営時代【昭和十五年~二十年】」の第一節「大本営陸軍部作戦課」中の「大本営の編制組織、作戦部(課)の任務、陣容」の項(六九~七三ページ)の一部である。
 本日は、これを引用してみよう。

 大本営の編制組織、作戦部(課)の任務、陣容
 参謀本部と大本営の関係については、よく混同され、理解されにくいようである。平時における常設組織としての国防用兵の府が「参謀本部」であり、 国家非常(有事)の際に臨機設置されるのが「大本営」である。大本営が設置されたときは、参謀本部が大本営陸軍部の主体となり、軍令部が大本営海軍部の主体となる。これに伴い、参謀総長は大本営陸軍部幕僚長、軍令部総長は大本営海軍部幕僚長となる。私〔瀬島籠三〕の職務も昭和十五年〔一九四〇〕一月、「参謀本部部員・大本営陸軍参謀」として発令された。したがつて、まず参謀本部を理解し、次に大本営を理解するのが適切である。
「参謀本部」について考えてみる。明治憲法下では、天皇の国家統治の大権は「国務」と「統帥」に分かれていた。すなわち、天皇は文武の両大権を総攬せられ、「国務」については政府(行政)、議会(立法)、 裁判所(司法)の各機関の輔佐、就中【なかんずく】、内閣の輔弼【ほひつ】によってこれを総攬されていた。一方、「統帥」については参謀総長(参謀本部)と軍令部総長(軍令部)の輔翼【ほよく】によってこれを総攬されていた。
【中略】
 以上は参謀本部の平時運営であるが、戦時または事変すなわち国家有事の際は、大本営が臨時に設置された。日清、日露両戦争の際も大本営が設置された。大本営は有事の際における陸海軍統帥の輔翼機関である。大本営が設置されると、参謀本部は大本営陸軍部の主体となり、参謀総長は大本営陸軍部幕僚長となった。軍令部は大本営海軍部の主体とな り、軍令部総長は大本営海軍部幕僚長となった。そして、両幕僚長は天皇の幕僚長として統帥に関して 輔翼の責に任じた。ただ、大本営が設置されると、平時にあっては参謀本部、軍令部に参画していない陸軍大臣と海軍大臣が、陸海軍省の一部の幕僚を伴って大本営に入ってきた。これを「列する」と言った。また、特旨によって、日清戦争では伊藤博文首相らの文官が「大本営の議に列する」こともあったが、その後はなく、昭和十九年〔一九四四〕、小磯国昭首相の要請も実現しなかった。
 大本営が設置された場合、国家全体の政戦両略、すなわち、国務と統帥とが緊密に動かなければならないため、陸海軍大臣や首相が議に列するのである。今次大戦中の統帥事項の御前会議の参列者についても、このことが配意された。
 昭和十二年〔一九三七〕、近衛〔文麿〕内閣のころから「大本営政府連絡会議」、昭和十九年の小磯内閣のころから「最高戦争指導会議」において、政府首脳と大本営首脳の合議形態で最高方針が実質的に決められ、特に重要な議題については天皇の御親を仰いで「御前会議」が開かれた。
 御前会議には、二通りのケースがあった。一つは、大本営政府連絡会議、あるいは最高戦争指導会議で討議された政戦両略にまたがる重要議題について、御前会議を奏請する場合である。開戦時、終戦時の御前会議はこれに当たる。もう一つは、重要な統帥事項について、御前会議を奏請する場合である。例えば、ガダルカナル島撤退に関する昭和十七年〔一九四二〕十二月三十一日の御前会議がこれに当たる。統帥事項ではあるが、極めて重要かつ影響の大きい用兵作戦だったため、特に「思召し」により元帥全員と陸海軍大臣が列席した。
 大本営が設置された場合、その庁舎として陸軍部は参謀本部、海軍部は軍令部をそれぞれ、庁舎として使用した。宮中にも大本営の会議室が置かれたことがあり、そこで大本営政府連絡会議や大本営に関連する会議が開かれた。
 大本営は有事の組織であるから、平時に戻れば、解散される。日清、日露両戦争の際も、平和回復後、解散された。また、日露戦争の際には、戦時組織として「連合艦隊司令部」が編成されたが、戦争終結後、解散した。東郷平八郎司令長官の「連合艦隊解散告別の辞」という名訓示が残されている。これは秋山真之〈サネユキ〉参謀の起案と言われる。東京湾において、明治天皇の御親臨を仰ぎ、全連合艦隊を集め、解散式が挙行された。第二次世界大戦における連合艦隊は平時常設の組織で、かつ戦時組織でもあった。
 日露戦争における満洲軍総司令部は戦時特設の組織であり、戦争終了後、解散された。今次大戦間における関東軍総司令部は平時常設の組織であり、寺内壽一〈ヒサイチ〉元帥の南方軍総司令部、西尾壽造〈トシゾウ〉大将(次いで畑俊六〈ハタ・シュンロク〉大将)の支那派遣軍総司令部は戦時特設の組織であった。【以下、略】

 いわゆる「御前会議」については、法制上の規定はないとされている。しかし、上の瀬島の記述を読むと、御前会議には「天皇が出席する大本営の議」という性格があったことがわかる。ただし、明治から昭和前期にかけて開かれた御前会議は、すべて「天皇が出席する大本営の議」であった、と言えるかどうかについては判断を保留する。
 さて、この間、問題にしてきた、一九四五年八月一四日の「ポツダム宣言受諾の御前会議」であるが、これは、「天皇が出席する最高戦争指導会議」の一態様であって、「天皇が出席する大本営の議」のひとつとして位置づけられるだろう。ただし、天皇がこれを召集していること、全閣僚が出席していることという二点において、これまで開かれた、どの御前会議とも異なる御前会議であったということができるのである。

*このブログの人気記事 2020・4・22

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする