礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

軍を攪乱したのは軍閥ではありませんか(磯部浅一)

2020-04-30 05:07:56 | コラムと名言

◎軍を攪乱したのは軍閥ではありませんか(磯部浅一)

 中野五郎『朝日新聞記者の見た昭和史』(光人社、一九八一年一一月)から、第六章「日本軍、東京を占領す――二・二六事件――」を紹介している。本日は、その二回目。本日は、「十八」の全文を紹介する。

      十八
 このような将軍中心の三月事件と、幕僚中心の十月事件の二つのクーデター計画を未然に探知して阻止しながら、軍首脳部は軍刑法の反乱予備罪を公正に適用して断乎、関係者を軍法会議に付して、徹底的に捜査、摘発するということをせず、処罰もせず、ただ、軍の体面上より軽い行政処分(転勤ならびに禁足処分)でごまかして、ひそかに闇から闇へ葬り去ったのであった。
 これがその後に来る五・一五事件(昭和七年〔一九三二〕)から二・二六事件(昭和十一年〔一九三六〕)にいたる一連の暗殺、反乱時代をまねいたのであった。
 しかも、軍部の手による国家革新のクーデターのタネをまいた将軍や、幕僚連中が、わずか数年後には、「統制」と「粛軍」の名の下に直情径行の青年将校(尉官級)の言動をおさえて、ひにくにも昭和維新の芽をつみとろうと努力したことが、かえって全国各地の青年将校たちの憤激を誘発した。
 とくに革命家北一輝〈キタ・イッキ〉の大著『日本改造法案大綱』に心酔、感激して、「重臣、財閥とともに内閣も君側の奸臣【かんしん】として仆【たお】すべし」と主張した急進派青年将校の指導者、村中孝次〈タカジ〉大尉と磯部浅一〈アサイチ〉一等主計の両人は、昭和十年〔一九三五〕四月に、「粛軍に関する意見書」と題する三月事件および十月事件の真相を暴露、追及した怪文書を各方面に頒布したため停職処分に付せられ、さらに同年八月、免官処分となった。それ以来、青年将校たちは統制派の軍主流をむしろ敵視して、昭和維新へ独走したわけだ。(前述)
 なぜ、三月事件と十月事件の中心人物たちが、わずか数年間のうちにクーデター計画を放棄して、かえって重臣、財閥と手を結んで、高度国防国家の建設へ邁進したのであろうか?
 なぜ、青年将校たちの崇敬の的であった皇道派の大立者の真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉大将が、軍主流の統制派よりにくまれて、冷【ひや】飯を食わされたのであろうか?
 それは、日本人固有の偏狭な島国根性がとくに軍人心理に強く作用していた点もあるが、最大の要因は、昭和六年〔一九三一〕九月十八日、奉天北郊の柳条溝の爆音一発により満州事変が起こって、軍部のかねて計画していた日満一体化の大陰謀がちゃくちゃくと成功しつつあったため、軍主流の将軍も幕僚連中も、軍部の政治的発言権が飛躍的に増大し、巨大な軍事予算も思うままに獲得できるようになって、「わが世の春」を謳歌していたからであった。
 軍人もまた人間である以上、とくに野心満々たる将軍や出世コースをめざす幕僚たちは、新橋や赤坂の一流料亭で、政財界の有力者ならびに革新官僚グループと接触している間に、冒険的なクーデターや、空想的な国家改造計画を未練もなく棄てて、満蒙支の経営と国防充実に熱中するようになった。
 このような将軍や幕僚の変節は、純真で単純な青年将校一派をいっそう、痛憤させて、これらの軍上層部を「軍賊」と罵倒して憎悪させるようになった。
 それで、二・二六事件の首魁として銃殺刑を執行された磯部浅一元主計の獄中遺書をみると、決起将校たちは川島〔義之〕陸相にたいする要望事項の一つとして、「小磯国昭、建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉、宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉、南次郎などの将軍を逮捕すること」を決定していたし、さらにまた、磯部個人として作成した斬殺すべき軍人リストには、「林銑十郎、石原莞爾【かんじ】、片倉衷【ちゆう】、武藤章、根本博の五人の将軍と幕僚(いずれも統制派)」が記入されてあった。
【一行アキ】
 また磯部は獄中より、尊敬する革命の先覚者北一輝と西田税〈ミツギ〉両人(いずれも反乱罪首魁として死刑)の助命と冤罪【えんざい】について、再三、激烈な上申書を出しているが、その一節につぎのようにのべている。
「北、西田両氏の思想は、わが国体顕現を本義とする高い改造思想であって、当時流行の左翼思想に対抗して毅然としているところが、愛国青年のもとめるものとピッタリと一致したのであります」
「要するに、青年将校の改造思想は、時世の刺激をうけて日本人本然の愛国魂が目をさましたところからでてきておるのであります。ですのに官憲は、北、西田の改造法案を弾圧禁止することにヤッ気になっています。これは大きな的【まと】はずれです。為政者が反省せず、時勢を立てかえずに北、西田を死刑にしたところで、どうして日本がおさまりますか?」
「北、西田を殺したら、将来、青年将校は再び尊皇討奸の剣をふるうことはないだろうと考えることは、ひどい錯誤です。青年将校と北、西田両氏との関係は、思想的には相通ずるものがありますけれども、命令、指揮の関係など断じてありません。ですから、青年将校の言動はことごとく愛国青年としての独自のものです。この関係を真に理解してもらいたいのです。北、西田が青年将校を手なづけて軍を攪乱〈コウラン〉するということを、陸軍では大きな声をしていいます。こんなベラ棒な話はありません」
「軍を攪乱したのは、軍閥ではありませんか。田中(田中義一大将)、山梨(山梨半造大将)、宇垣(宇垣一成大将)の時代に、陸軍はズタズタにされたのです。この状態に憤激して、これを立て直さんとしたのが青年将校と西田氏らです。永田鉄山(陸軍省軍務局長、相沢〔三郎〕中佐に刺殺さる)が林(陸軍大臣林銑十郎大将)とともに、財閥に軍を売らんとし、重臣に軍を乱されんとしたから、粛軍の意見を発表したのです。真崎(教育総監真崎甚三郎大将)更迭の統帥権干犯問題は林、永田によってなされたのです」
「三月事件、十月事件などは、みな軍の中央部幕僚が、ときの軍首脳者と約束ずみで計画したのではありませんか。何をもって北、西田が軍を攪乱するといい、青年将校が軍の統制を乱すというのですか? 北、西田両氏と青年将校は、皇軍をして建軍の本義にかえらしめることに身命を賭している忠良の士ではありませんか!」
「昭和六年十月事件以来の軍部幕僚の一団のごとき『軍が戒厳令を布いて改造するのだ』『改造は中央部で計画実施するから青年将校は引っこんでおれ』『陛下が許されねば短刀を突きつけてでもいうことをきかせるのだ』などの言辞を、平然として吐く下劣不逞なる軍中央部の改造軍人と、北氏の思想とを比較してみたら、いずれが国体に容れるか、いずれが非【ひ】か是【ぜ】か、容易に理解できることです。軍が二月事件の公判を暗闇のなかに葬ろうとしているのは、北氏の正しき思想信念と青年将校の熱烈な愛国心とによって、従来、軍中央部で吐きつづけた不逞【ふてい】きわまる各種の放言と、国体に容れざる彼らの改造論をたたきつぶされるのが恐ろしいのが有力な理由であります。重ねて申します。北、西田両氏の思想は断じて正しいものであります」
【一行アキ】
 要するに、三月事件、十月事件から二・二六事件にいたる五年間のいたましい昭和動乱の傷あとを冷静にさぐってみると、私は天皇制の矛盾という大きな厚い壁にぶつかるのだ。
 すなわち、将軍も幕僚も青年将校も、すべて軍人勅諭によって天皇に直結し、天皇絶対の軍隊を構成しながら、みにくい派閥内争と、いわゆる下剋上【げこくじよう】の抗争をつづけ、いずれも「朕の股肱【ここう】である」という特権意識の上にあぐらをかいて驕兵【きようへい】のそしりをまぬがれなかった。しかも天皇自身の強い自由な発言権は、側近者と古い因習とによって「おそれ多い」という口実の下に封じられていたようだ。
 将軍も幕僚も青年将校も、めいめい相手を非難、攻撃しながら、それぞれ天皇をかついで、われこそ「天皇の寵児【ちようじ】」たらんと忠臣ぶって言動していた。この天皇=将軍=幕僚=青年将校の奇々怪々な四角関係に思い切ってメスを入れないかぎりは、二・二六事件の複雑な秘密は永久に解けないであろう。
 しかも戦後に民主化されたとはいえ、二・二六事件のときと同じ天皇の下に、新しい軍隊たる自衛隊はすでにかなりの兵力を備えている。多数の〝青年将校〟たちはいったい、なにを考えているであろうか? 彼らは天皇制をどう思っているであろうか?
 また、今日の自衛隊の青年将校は二十五年前の天皇制軍隊の青年将校と、どこがちがっているのか? どこがちがっていないのか?
 私は率直に訴えたい――天皇も政府も財界も官界も言論界も自衛隊も国民大衆も、どうか二・二六事件の真相を直視して、決して、腐い物にふたをすることかく、いったい、なにが誤っていたか、なにが正しかったか、当時の皇軍反乱のもろもろの教訓を、あらためて真剣に反省しようではないか! 我々の同胞と子孫とがふたたび同じような誤りを犯さないために!

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