礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

比島を今次戦争の天王山とし……(瀬島龍三)

2020-04-23 01:54:07 | コラムと名言

◎比島を今次戦争の天王山とし……(瀬島龍三)

 昨日に続いて、瀬島龍三『瀬島龍三回想録 幾山河』(産経新聞ニュースサービス、一九九五)を紹介する。
 本日、紹介するのは、第二章「大本営時代【昭和十五年~二十年】」の第四節「戦争終結へ」中の「昭和十九年前半の情勢」の項(一四六~一五四ページ)の末尾にあたるところである。

 ここで、私の親戚の岡田啓介大将について、少し書き記したい。
 私の妻、清子の母は岡田の妹であり、岡田は清子の伯父に当たる。岡田は二・二六事件当時の首相であり、九死に一生を得たが、清子の父、松尾傳蔵元大佐が身代わりとなり、首相官邸で倒れた。岡田は二・二六事件後、重臣として国の枢機に参じ、新宿・角筈〈ツノハズ〉の古い小邸に住んでいた。
 私は陸軍大学校時代も大本営に行ってからも時折、岡田家を訪ね、夕食をともにしながら、政治、海軍、 国際問題等の話を大将から聞くことができた。
 私の知る岡田は広い視野と情報力を持ち、考え方に幅と弾力性があった。世上「タヌキ」と言われたゆえんかもしれない。
 国の諸問題については、平和主義的な考え方であった。開戦についても最後まで慎重派であり、開戦後も「何らかのチャンスをつかんで今次戦争を速やかに和平に持っていくべきである」と考えていた。
 二・二六事件のこともあり、陸軍には厳しい批判の目を持っていた。ことに、東条〔英機〕首相を強く批判し、東条内閣の嶋田〔繁太郎〕海相も批判した。逆に、米内〔光政〕大将には高い評価を与えていた。陸軍では、故永田鉄山軍務局長を高く評価し、その手腕にも期待していた。
 岡田内閣時代の昭和十年〔一九三五〕八月十二日、永田軍務局長殺害の報告を受けた瞬間、「ああ、岡田内閣もこれで終わりだ」と直感した旨、私に話したことがある。
 戦争中は昭和十八年〔一九四三〕に入り、時々、「自宅(角筈)に来るように」と連絡があった。私は作戦業務に多忙を極めていた。しかも、当時、岡田邸の出入りは私服の憲兵によって監視されていた。陸軍の批判を聞かされるのもあまり快くはなく、頻繁には行かなかった。それでも、数カ月に一度ぐらいは訪問した。岡田の女婿、迫水久常氏(当時、大蔵省総務局長で、終戦時の鈴木〔貫太郎〕内閣書記官長)、岡田の長男、貞外茂〈サダトモ〉海軍中佐(大本営海軍部作戦課勤務、十九年〔一九四四〕末、比島〔フィリピン諸島〕で戦死)もよく同席していた。
 岡田は「全国軍の観点から見て、太平洋の作戦は海軍が主役でなければならない。海軍が西太平洋の制空・制海権を失えば、陸軍部隊は孤島に孤立する。その海軍が昭和十七年〔一九四二〕のミッドウェーで敗れ、続いてガ島〔ガダルカナル島〕でも大損耗を来した。残念ながら、この戦争は勝てない。どこかで和平の方途を見出さなければならない」と言っていた。日夜、作戦業務に身魂を傾けていた貞外茂中佐や私は半ば冷水をかけられる思いであったが「国家の大局指導はそうかもしれない」とも思った。
 十九年二月ごろ、海軍の前方決戦地帯たるマーシャル〔諸島〕で敗れ、要衝トラック〔島〕に敵が来襲するに及んで、岡田大将は戦争の早期終結を真剣に考えた。「戦争終結のためには、開戦時の東条内閣では大転換は難しい」と判断し、他の重臣とともに東条内閣打倒に向けた動きを始めたようである。
 十九年七月のサイパン〔島〕失陥を機に、まず嶋田大将に海軍大臣辞任を迫った。私は「岡田は東条内閣に代わる新内閣をもつて終戦内閣にしたい考えではなかったか」と思う。
 そのころ、私は岡田大将に対し、こんなことを進言したと記憶している。
「どこかでこの戦争を和平終結させることは国家の戦争指導上、絶対に必要である。その時期は、少なくとも我が本土への敵の上陸進攻以前でなければならない。本土を戦場にすることは絶対に避けるべきであり、万一、そのようなことになれば、国家の再建は不可能となり、皇室の存続も難しい」
「アメリカが我が方の和平提案に応ずるのは、少なくとも米国の領土たる比島奪回後であろう。それ以前にアメリカが和平に応ずることはなく、米軍は必ず、比島に進攻する。したがって、比島を今次戦争の天王山とし、ここで敵に大打撃を与え、和平のチャンスを見出すことがベストと考えられる。日露戦争において、明治三十八年〔一九〇五〕三月十日の奉天会戦、続いて五月二十七日の日本海海戦をもって和平への転機としたように……。ただ、国の最上層部における和平努力の空気が少しでも外に漏れることは軍の第一線に対する作戦指揮上、好ましくない」
 岡田大将は黙って私の進言を聞いていた。杯を傾けながらも、苦渋に満ちた表情であった。岡田は陛下の信任厚い重臣として、また太平洋作戦の主役たる我が海軍の実情がわかる数少ない老臣として、あの陋屋の八畳間で日夜、苦悩を重ねていたのであろう。

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