◎東亜協同体は今日吾々の理念である(土肥原賢二)
二〇一八年九月六日の当ブログに、「いちばん可哀そうなのは土肥原賢二だった」という記事を書いた。それ以来、どういうわけか、この記事に対するアクセスが多い。
土肥原賢二(どいはら・けんじ)という軍人については詳しくない。右の記事も、東京裁判の弁護人だった三文字正平(さんもんじ・しょうへい)の発言を、そのまま引用しただけのものである。出典は、花見達二著『大転秘録』(妙義出版株式会社、一九五七)の巻末に収録されていたインタビュー記録であった。
数日前、たまたま、竹山道雄の『昭和の精神史』(新潮社、一九五六)を読んでいたところ、戦中における土肥原賢二の発言を引用しているところがあった。本日は、同書から、その前後(一二四~一二六ページ)を紹介してみよう。
昭和十二三年〔一九三七・一九三八〕ころから以降の雑誌類を読みかえすと、つくづく思想家とか評論家とかいうものは、そのときによつてどうにでも理窟をつける愚かしいものだという感を禁じえない。いまカーテンの内の国々について、「言論の自由はある。ただしある枠の中で」と説明されているが、あのころには日本でも人々はそういう自由を満喫していた。そしてこの枠も、ほとんど自分で作つたようなものだつた。あのような説を唱えた人々はみな自発的にいいだしたので、日本ではそう言わねばならぬという教制はなく、黙つていてもすんだ。しかし、あの説はついに世論として圧倒的な力をえることになつた。
しかし、その人たちとて、はたしてそれほど心から賛同していたのだつたろうか? 多くの人人が精神的二重生活をしていた。不平をいだきながら勢いよく協力していた。いまその人々は、この心にいだいていた不平の分をもつて弁明としている。現在のポーランドのインテリについて読んだことがあるが、それがあのころの日本とそつくりなのにおどろいた。
それらの論文は残つていていま読むことができる。便乗もあり、心からの信念のものもあり、尾崎氏のように他の目的をひそめたものもあり、また現在行われている戦争に正しい目的と性格をあたえようと努力したものもあつた。まことに目をみはるようなことも多いが、それは別のはなしである。ただいかに指導的インテリ(ほとんどすべての指導的インテリがあれを唱えた)の意見が合致して、ついに国が思想的に一元化したかの例として、つぎに二つだけをあげる。
三木清(昭和十四年〔一九三九〕五月の中央公論)
……必要なことは愛国心が革新の情熱と結びつくことである。……愛国心は諸君のモラルの基盤でなければならない、だが愛国心は何よりもわが民族の使命の自覚となつて現はれなければならない……学問を我々の使命に結び付けるといふことは学問を軍に有用性に従属させるといふことではない。わが民族の使命は世界史的意義を有するものとして単なる有用性を遥かに超えたものでなければならない筈である。
同じ雑誌に、土肥原〔賢二〕将軍は同じ趣旨をもつとはげしい口調で説いて、自由主義観念を打破せよと教えている。
……東亜協同体、これは今日吾々の理念である。だがそれは今次事変を戦つてゐる吾々の情熱的戦闘心と一致する。偉大にして高邁なる理念であり、端的な信念である。吾々が既成の世界秩序を打破して、新文明史的な進歩的な新東亜を建設するには、この情熱的な戦闘心と偉大にして高邁なる理念と端的な信念を常に実践して、今日それらには全く欠如してゐるが、一つの世界観によつて武装してゐる旧思想と戦はねばならない……。旧時代、旧思想と戦つて、新しき時代、新しき思想を建設するわれわれは、行動原理及びその性格と推進力を、吾々の民族的なもの、国家的なもの、歴史的なものの中に求めなければならない。……現在は解体と建設の中から新らしい道徳的領域を確立せねばならないのである。かかる新らしい世代にとつて、新らしい世代の実践から遊離した真理の存在は許されない。
等々、これらの類〈タグイ〉のものは無数である。
このころは、超国家主義者の土肥原将軍も国を長期消耗戦から敗北へと導こうとしていた尾崎秀実〈ホツミ〉も、同じことを唱えていた。これで日本の思想的目標は定まつた。
全国の山野に錬成場が設けられて、みそぎがはじまつた。対米宣戦が布吿されたときには「これで天の岩戸がひらけた」といつたりした。このとき人々は、今まで引きまわされていた迷路の中から、はじめてはつきりとした目標を見たと思ったのだつた。戦争中に新兵器がしきりに要望されたとき、さる大新聞に「瘋癲病院の患者の着想を利用せよ」書いてあつた。【以下、略】
文中、「ほとんどすべての指導的インテリがあれを唱えた」とあるが、「あれ」というのは、「聖戦完遂」、「国家体制革新」、「あたらしいモラル」をセットにして説く主張のことである。
土肥原賢二は、中国工作に深く関与した軍人として知られるが、その一方で、『中央公論』に論文を掲載しうる「インテリ」でもあった。
ここで、竹山道雄が名前を挙げた三人の「インテリ」だが、尾崎秀実は、戦中の一九四四年(昭和一九)一一月七日に、ゾルゲ事件の首謀者として絞首刑となり、三木清は、敗戦直前に検事拘留処分を受けたのち、一九四五年(昭和二〇)九月二六日に獄中死した。そして、土肥原賢二は、一九四八年(昭和二三)一二月二三日、A級戦犯として絞首刑になっている。