◎叛逆を成功させるための三条件
雑誌『伝統と現代』、「叛逆」特集号(第二巻第一〇号=通巻第一六号、一九六九年一一月)から、杉山博の「戦国の叛逆者たち」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
2 北条早雲の叛逆
道灌とおなじ年の永享四年(一四三二)の壬子【みずのえね】の年生れの北条早雲は、道灌とはまさに正反対の戦国の叛逆児であった。早雲は、道灌が誅殺された五十五歳のころは、妹の北川殿の縁で今川氏親〈ウジチカ〉(北川殿の子、したがって早雲の甥にあたる)に従って、駿河国興国寺の城主であった。彼は、主君今川氏への叛逆ではなくて、関東の上杉氏の支配体制=鎌倉幕府体制の打倒をめざす。「北条記」によると、「三島参籠・悪夢の事」という項に、つぎのような話がのせられている。
「早雲は、ある日六人の家老に、政権交替の思想を語った。早雲によると、源氏・北条氏のあと、源氏の足利氏が京と鎌倉に栄えたが、鎌倉では〔足利〕持氏が滅亡したあと、堀越公方の〔足利〕政知が下向してきた。政知は源氏であったが病死した。このように持氏・政知が相ついで死んだの は、源氏が滅亡する時節が到来したからである。ところが今の関東管領の上杉氏は、藤原氏であるから、世の中を治めるにふさわしくない。さいわいわが家は、平氏であるから、今こそ世に出るべき運命にある。なんとかして両上杉氏〔山内・扇谷〕を討ち亡ぼして、国を保ちたいものである。
やがて早雲は、三島大明神に参籠して、『七代までは北条を継いで関東より権をとらばや』と、一心に祈った。ところがこの早雲の参籠の翌年の正月二日の初夢で、早雲は、まったく早雲らしい夢のお告げをうけた。それは、ある広い野原の中に、二本の大杉がそびえて立っていた。ふと見ると、一匹のネズミが、チョロチョロと出てきて、その大木の根っこを、コツコツと食いはじめた。そのうちに、ネズミはみるみる、大きな虎になったと思ったら、目がさめたというのである。
早雲は、自分でこの夢占いをして、『関東は両上杉氏の領国である。二本の杉は、山内〈ヤマノウチ〉と扇谷〈オウギガヤツ〉の両上杉氏のことであろう。私は子【ね】年生まれであるから、根っこを食っていたネズミは私である。やがて二本の大杉は食い倒されるであろう。この夢のお告げは、早雲の子孫が上杉氏を滅ぼし、関東の主となる瑞相〈ズイソウ〉であると、早雲は大いによろこんだ。そして早速、三島大明神に種々のお供物をして、早雲はいよく上杉退治の謀略をねったというのである。」
この話は、まことにうまくできている話である。早雲が、後北条氏の権力の象徴ともいうべき「虎の印判状」を使いはじめたのは、早雲の死の前年の永正十五年(一五一八)戊寅〈ツチノエトラ〉の年のことであり、まさにネズミの早雲がトラとなった年のことである。おそらく早雲は、このころに、このネズミからトラの話を、ほこらしげに家臣らに語っていたのではあるまいか。
叛逆が成功するためには、周到な準備と、執拗な反復と 機敏な情況判断の三者が必要条件である。早雲の晩年は、まさにその模範とでもいうべき生涯であった。早雲は、まさに着々とあせらず、しかも機を見て叛逆を成功にみちびいていった。
しかも叛逆が成功するためには、その叛逆の理論的根拠とでもいうべき思想と、その思想の実行の結果を示す成果のつみかさねとがともなわなければならない。源平交替の思想といい、四公六民の民政といい、禄寿応穏のモットーといい、これらは早雲が、自ら、叛逆を遂行する過程でつくりあげてきたものであろう。伊豆や相模の武士や百姓らは、早雲の実行をみて、早雲につき従ったといえよう。
しかし世は、戦国の世の中である。きれいごとずくめで、早雲が反体制の叛逆に成功するわけがない。早雲とても、ずいぶんひどいことをやってのけているのである。例えば、伊豆進入のときの話しであるが、早雲の命令に従わない、関戸吉信という堀越公方〔足利政知〕の縁者がいた。関戸は伊豆から関東に出る山里の深根城の城主であった。早雲は、この深根城を攻めて、吉信をはじめ、城中・城外のおんな・わらべ・法師にいたるまで、一人のこらず首をはねてしまった。そして城の廻りに、その千余の首をかかげた。これを見聞きして、伊豆国中の武士は、早雲の威に恐れて、早雲の陣営にはせ参じたという。
この話は、早雲が伊豆に進入したとき、多くの病人を救護したという話と、まさにうらはらの話であるが、この方がどうも真実のようである。早雲とても、このような「強い心」の持ち主でなければ、とうてい叛逆は成功しなかったと思われるからである。
このあと、「3 松永久秀の叛逆」に続くが、これは次回。