◎サイパン島からのラジオ放送で占領政策を知る
川島武宜『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)から、第Ⅴ部「終戦前後」の第一章「終戦の頃」を紹介している。本日は、その後半。
⑶ サイパンの放送をきく
戦争の末期には、米軍が占領したサイパン島から送ってくる中波のラジオ放送(日本語)が、われわれのもっていた普通の受信器で明瞭に聞けるようになりました。当時は、これを聞くことが厳禁されていましたが、相模の山の中の与瀬で音をしぼって聞くことまで取りしまることはできないだろうと思い、時々聞いていました。その放送内容は、日本の政治体制の批判とか、民主主義と基本的人権の有難さの説明が主でしたが、当時の日本では仮りそめにも口にすることすらできないようなことが、遠慮なしに明白に語られるのですから、私も最初はいささかの戸惑を感じたほどでした。今になって思うと、私もまた奴隸の心理になっていたのです。
そのころ、米軍が次から次へと日本軍を撃滅し日本にせまってくるにしたがい、その放送は日本を降伏させて占領した場合の占領政策を予告するようになりました。それは一言で言うなら、「占領したら、全体主義的政治権力を解体し、徹底的に民主化政策を実行するぞ」ということに尽きますが、かなり具体的にその政策内容を述べていました。降伏前後には、一般国民のあいだには米軍に対する一種の恐怖があり、占領されたら、私財は略奪自由、われわれの生命は斬りすて御免、女性は犯し放題になる、と信ぜられ、どうして占領軍からかくれるか、特に女・子供をどこへかくすか、を真剣に考えた人がずい分いました。ところが、サイパン放送はまことに理想主義的な教説を述べたてていたのです。果して米軍はそういう約束どおりやるのだろうか、米軍将兵の暴行は起らないのだろうか、日本への憎悪にみちた報復的な残虐な圧政はないのだろうかと、私は半信半疑でした。しかし、そのうちに、うちに、その放送はまんざらただの欺瞞ではあるまい、アメリカには占領政策の構想がきまっているらしい、という印象をもつようになりました。そうして私は、アメリカが占領政策でどれくらいその公約を実行するか、刮目して見よう、という気になりました(後で分ったことですが、アメリカ国務省が、日本戦後処理政策の研究を開始したのが昭和一七年(一九四二年)一一月であり、二〇年(一九四五年)の春にはほぼ出来上っていました)。
やがて昭和二十年(一九四五年)八月一五日に日本は無条件降伏をし、八月二八日にはマッカーサーが日本に来て、占領が始まりましたが、サイパン放送で予告してきたとおりのことをだんだん実施してきたのです。ですから、占領政策の内容には驚きませんでした。古い憲法体制をなくして民主主義体制にする、社会生活の民主化を促進する、労働運動を自由にする、農地改革を行なう、というような政策を着々と実行してきたわけです。
その当時私は、「外国の民主主義革命についてわれわれが歴史の本で読んでいたようなことが、自分の生きているうちに目の前に起こるのだ。社会科学者としてこんな興味のある経験はない。世界史の中で、もちろん日本の歴史の中で、特筆すべきできごとが起こりつつある。自分はそのできごとの生き証人になるわけだ。社会科学者として張り切らざるを得ない」という気持でした。
これは余談ですが、そのような放送を聞いていたおかげで、後になって、私は「予言者」のように思われることになったのです。無条件降伏の直後に私は、家族が疎開していた信州伊那谷の農村に行きましたら、早くも、小作人が、何代にもわたって土地を使わせてくれた地主に対して農地をよこせと要求する動きが、起っていました。私の家族がお世話になっていたのは、その村の耕地の大部分を所有する古い家柄の豪族地主でしたが、こういう思いもよらぬ動きに対面して、どう対応したらよいのか、途方にくれておられましたので、私は、「占領軍は、いずれ農地改革をやって全国の地主の土地を強制的に取上げて小作人に与えるようになるだろう。その時になって取られるくらいなら、今譲り渡したほうが、村の中で敵対関係を作らないでいいかもしれない」(その人は、その村に、見渡すかぎりひろがっている広大な山林を所有しておられましたので、その山林の維持のためには、そういうことが重要だと私は考えたのです)、という意見を述べたことがありました。後になって占領軍はあの徹底的な農地改革をやったので、私は「予言者」のごとく思われたらしいのです。
占領軍が日本に上陸してきてから間もないころのことでしたが、ある日、敗戦で除隊になって与瀬に帰ってきた青年(入隊前は小学校の先生)といろいろ占領政策のゆくえを話しあったことがありました。その人は、「戦前に小学校で日本歴史を教えていたとき、生徒から、『ニニギノミコトは天から降りて来て日本の支配者になったというが、飛行機もないのにどうして降りてきたのか、また空気がうすい天で酸素もなしにどうして生きていたのか』という質問を受けて、返答に窮したことがしばしばありました。これからは神話を事実だと教えこむ必要がなくなりそうですから、日本歴史を教えるのは楽になるでしょう……」と言われましたので、私は「そういう質問には、どう答えておられたのですか」と問いましたところ、「しかたがないから、神様は酸素がなくても生きていられるし、飛行機がなくても落ちないで、ふわっと降りられるのだ、と答えることにしていました。」という返事でした。キリスト教でバイブルに書いてあることを全部「事実」だと説明するよりも、日本の神話を全部「事実」だと言うほうが、むずかしかったにちがいありません。当時この種のエピソードは数多くあり、敗戦、占領ということが日本の歴史にとっていかに重大な変化をもたらすものであるか、そうして学校教育だけでなく、日本歴史学や政治学にとって、そうして憲法学にとっても、根本的な変革が迫られつつあるのだということを、しみじみと感じたしだいです。〈195~198ページ〉
川島武宜『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)から、第Ⅴ部「終戦前後」の第一章「終戦の頃」を紹介している。本日は、その後半。
⑶ サイパンの放送をきく
戦争の末期には、米軍が占領したサイパン島から送ってくる中波のラジオ放送(日本語)が、われわれのもっていた普通の受信器で明瞭に聞けるようになりました。当時は、これを聞くことが厳禁されていましたが、相模の山の中の与瀬で音をしぼって聞くことまで取りしまることはできないだろうと思い、時々聞いていました。その放送内容は、日本の政治体制の批判とか、民主主義と基本的人権の有難さの説明が主でしたが、当時の日本では仮りそめにも口にすることすらできないようなことが、遠慮なしに明白に語られるのですから、私も最初はいささかの戸惑を感じたほどでした。今になって思うと、私もまた奴隸の心理になっていたのです。
そのころ、米軍が次から次へと日本軍を撃滅し日本にせまってくるにしたがい、その放送は日本を降伏させて占領した場合の占領政策を予告するようになりました。それは一言で言うなら、「占領したら、全体主義的政治権力を解体し、徹底的に民主化政策を実行するぞ」ということに尽きますが、かなり具体的にその政策内容を述べていました。降伏前後には、一般国民のあいだには米軍に対する一種の恐怖があり、占領されたら、私財は略奪自由、われわれの生命は斬りすて御免、女性は犯し放題になる、と信ぜられ、どうして占領軍からかくれるか、特に女・子供をどこへかくすか、を真剣に考えた人がずい分いました。ところが、サイパン放送はまことに理想主義的な教説を述べたてていたのです。果して米軍はそういう約束どおりやるのだろうか、米軍将兵の暴行は起らないのだろうか、日本への憎悪にみちた報復的な残虐な圧政はないのだろうかと、私は半信半疑でした。しかし、そのうちに、うちに、その放送はまんざらただの欺瞞ではあるまい、アメリカには占領政策の構想がきまっているらしい、という印象をもつようになりました。そうして私は、アメリカが占領政策でどれくらいその公約を実行するか、刮目して見よう、という気になりました(後で分ったことですが、アメリカ国務省が、日本戦後処理政策の研究を開始したのが昭和一七年(一九四二年)一一月であり、二〇年(一九四五年)の春にはほぼ出来上っていました)。
やがて昭和二十年(一九四五年)八月一五日に日本は無条件降伏をし、八月二八日にはマッカーサーが日本に来て、占領が始まりましたが、サイパン放送で予告してきたとおりのことをだんだん実施してきたのです。ですから、占領政策の内容には驚きませんでした。古い憲法体制をなくして民主主義体制にする、社会生活の民主化を促進する、労働運動を自由にする、農地改革を行なう、というような政策を着々と実行してきたわけです。
その当時私は、「外国の民主主義革命についてわれわれが歴史の本で読んでいたようなことが、自分の生きているうちに目の前に起こるのだ。社会科学者としてこんな興味のある経験はない。世界史の中で、もちろん日本の歴史の中で、特筆すべきできごとが起こりつつある。自分はそのできごとの生き証人になるわけだ。社会科学者として張り切らざるを得ない」という気持でした。
これは余談ですが、そのような放送を聞いていたおかげで、後になって、私は「予言者」のように思われることになったのです。無条件降伏の直後に私は、家族が疎開していた信州伊那谷の農村に行きましたら、早くも、小作人が、何代にもわたって土地を使わせてくれた地主に対して農地をよこせと要求する動きが、起っていました。私の家族がお世話になっていたのは、その村の耕地の大部分を所有する古い家柄の豪族地主でしたが、こういう思いもよらぬ動きに対面して、どう対応したらよいのか、途方にくれておられましたので、私は、「占領軍は、いずれ農地改革をやって全国の地主の土地を強制的に取上げて小作人に与えるようになるだろう。その時になって取られるくらいなら、今譲り渡したほうが、村の中で敵対関係を作らないでいいかもしれない」(その人は、その村に、見渡すかぎりひろがっている広大な山林を所有しておられましたので、その山林の維持のためには、そういうことが重要だと私は考えたのです)、という意見を述べたことがありました。後になって占領軍はあの徹底的な農地改革をやったので、私は「予言者」のごとく思われたらしいのです。
占領軍が日本に上陸してきてから間もないころのことでしたが、ある日、敗戦で除隊になって与瀬に帰ってきた青年(入隊前は小学校の先生)といろいろ占領政策のゆくえを話しあったことがありました。その人は、「戦前に小学校で日本歴史を教えていたとき、生徒から、『ニニギノミコトは天から降りて来て日本の支配者になったというが、飛行機もないのにどうして降りてきたのか、また空気がうすい天で酸素もなしにどうして生きていたのか』という質問を受けて、返答に窮したことがしばしばありました。これからは神話を事実だと教えこむ必要がなくなりそうですから、日本歴史を教えるのは楽になるでしょう……」と言われましたので、私は「そういう質問には、どう答えておられたのですか」と問いましたところ、「しかたがないから、神様は酸素がなくても生きていられるし、飛行機がなくても落ちないで、ふわっと降りられるのだ、と答えることにしていました。」という返事でした。キリスト教でバイブルに書いてあることを全部「事実」だと説明するよりも、日本の神話を全部「事実」だと言うほうが、むずかしかったにちがいありません。当時この種のエピソードは数多くあり、敗戦、占領ということが日本の歴史にとっていかに重大な変化をもたらすものであるか、そうして学校教育だけでなく、日本歴史学や政治学にとって、そうして憲法学にとっても、根本的な変革が迫られつつあるのだということを、しみじみと感じたしだいです。〈195~198ページ〉
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