◎岩波文庫版『独逸国民に告ぐ』を入手した
2月5日の記事「フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』の復刊を望む」の補足である。同日午後、岩波文庫『独逸国民に告ぐ』(1928年3月初版)を閲覧するため、国立国会図書館を訪れた。ところが、わざわざ出かけたにもかかわらず、同図書館には、同書が架蔵されておらず、閲覧を果せなかった。
そこで、古書店から入手しようと考えた(最初から、そうすべきであった)。7日の早朝、ネット上で岩波文庫『独逸国民に告ぐ』を発見したので注文。昨8日の午前中には、それが郵便受けに届いていた。
奥付には、1928年(昭和3)3月3日発行、1936年(昭和11)5月10日第11刷発行とある。本文254ページ、定価40銭(★★)。
扉のあとに、凡例があり(3~4ページ)、そのあとに目次(5ページ)、さらに「フィヒテ小伝」(6ページ)が続く。凡例は、以下の通り。
凡 例
一、本輯は一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテが伯林学士院に於て学者教育者その他愛国の士を集めて行へる講演(独逸国民に告ぐ)Reden an die deutsche Nation を翻訳したものである。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明したもので、当時伯林は仏軍の蹂躙する所となり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりと云ふ。
一、フィヒテはこの講演に於て独逸国民が道徳の要素に於て欠くる所あるを摘発し、之を根柢より救済せんとした。即ちフィヒテは全欧洲の国民が挙つて道徳的に堕落の頂点に達せるを痛論し、当時の状態を批評して最も完備せる罪悪の社会なりとし、極端なる利己主義流行の時代なりと云つたのである。是に於てその国民を道徳的堕落より救済するには国民教育を根柢より改良し、倫理的新時代を作らねばならぬと主張した。フィヒテによれば、この道徳的革新は世界的問題なると同時に独逸の民族的問題であつて、その目的とする処は人類に鞏固にして善良なる意志を養成するにある。故に教育は須らく具案的、方法的でなくてはならぬ。精神の純潔は思考の明晰を予想する。故に認識の明晰により純良なる意思を鍛錬することを得る。フィヒテはペスタロッチが児童教化の理想的方法に基礎を与へたことを称揚し、その主義を採り之に自己の理想を加へ以て此の論をなした。
一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てゝ、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹せるにある。而してその主張に幾分極端なる点もあるが、よく時勢を洞察し、国民の覚醒を促したる所は、今日の我社会に対して参考となるべきもの多きを思ふ。
一、本書は大正六年九月、「時局に関する教育資料」として、文部省普通学務局にて、上梓したものを、今回文部省の好意ある許諾を得て岩波文庫の一篇としたものである。謹んで同局に謝意を表する。
一、訳者は六年前に長逝せられ本年二月四日は丁度その七周忌にあたる。本書の翻訳は同氏以前に幾人もこれを試みられたが、難解苦渋何人も之を半途に放擲した。大津氏を俟つて初めてこれを完成されたことを特記する。
昭 和 三 年 二 月
文部省版『独逸国民に告ぐ』(1917)の凡例とは、もちろん違う。岩波文庫改版『ドイツ国民に告ぐ』(1940)とも微妙に違う。これについてコメントするのは、別の機会に譲るが、とりあえず注目しておきたいのは、第三項に、「而してその主張に幾分極端なる点もあるが」とある点である。
明日は、川島武宜『ある法学者の軌跡』の紹介に戻る。
2月5日の記事「フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』の復刊を望む」の補足である。同日午後、岩波文庫『独逸国民に告ぐ』(1928年3月初版)を閲覧するため、国立国会図書館を訪れた。ところが、わざわざ出かけたにもかかわらず、同図書館には、同書が架蔵されておらず、閲覧を果せなかった。
そこで、古書店から入手しようと考えた(最初から、そうすべきであった)。7日の早朝、ネット上で岩波文庫『独逸国民に告ぐ』を発見したので注文。昨8日の午前中には、それが郵便受けに届いていた。
奥付には、1928年(昭和3)3月3日発行、1936年(昭和11)5月10日第11刷発行とある。本文254ページ、定価40銭(★★)。
扉のあとに、凡例があり(3~4ページ)、そのあとに目次(5ページ)、さらに「フィヒテ小伝」(6ページ)が続く。凡例は、以下の通り。
凡 例
一、本輯は一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテが伯林学士院に於て学者教育者その他愛国の士を集めて行へる講演(独逸国民に告ぐ)Reden an die deutsche Nation を翻訳したものである。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明したもので、当時伯林は仏軍の蹂躙する所となり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりと云ふ。
一、フィヒテはこの講演に於て独逸国民が道徳の要素に於て欠くる所あるを摘発し、之を根柢より救済せんとした。即ちフィヒテは全欧洲の国民が挙つて道徳的に堕落の頂点に達せるを痛論し、当時の状態を批評して最も完備せる罪悪の社会なりとし、極端なる利己主義流行の時代なりと云つたのである。是に於てその国民を道徳的堕落より救済するには国民教育を根柢より改良し、倫理的新時代を作らねばならぬと主張した。フィヒテによれば、この道徳的革新は世界的問題なると同時に独逸の民族的問題であつて、その目的とする処は人類に鞏固にして善良なる意志を養成するにある。故に教育は須らく具案的、方法的でなくてはならぬ。精神の純潔は思考の明晰を予想する。故に認識の明晰により純良なる意思を鍛錬することを得る。フィヒテはペスタロッチが児童教化の理想的方法に基礎を与へたことを称揚し、その主義を採り之に自己の理想を加へ以て此の論をなした。
一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てゝ、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹せるにある。而してその主張に幾分極端なる点もあるが、よく時勢を洞察し、国民の覚醒を促したる所は、今日の我社会に対して参考となるべきもの多きを思ふ。
一、本書は大正六年九月、「時局に関する教育資料」として、文部省普通学務局にて、上梓したものを、今回文部省の好意ある許諾を得て岩波文庫の一篇としたものである。謹んで同局に謝意を表する。
一、訳者は六年前に長逝せられ本年二月四日は丁度その七周忌にあたる。本書の翻訳は同氏以前に幾人もこれを試みられたが、難解苦渋何人も之を半途に放擲した。大津氏を俟つて初めてこれを完成されたことを特記する。
昭 和 三 年 二 月
文部省版『独逸国民に告ぐ』(1917)の凡例とは、もちろん違う。岩波文庫改版『ドイツ国民に告ぐ』(1940)とも微妙に違う。これについてコメントするのは、別の機会に譲るが、とりあえず注目しておきたいのは、第三項に、「而してその主張に幾分極端なる点もあるが」とある点である。
明日は、川島武宜『ある法学者の軌跡』の紹介に戻る。
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