◎小野武夫と大日本壮年団連盟
二一日および二三日、小野武夫博士の「学蹟」についての文章を引用したが、本日は、その続きであり、その最後である。なお、この文章の筆者は、末尾にあるように、本位田祥男〈ホンイデン・ヨシオ〉である。
出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)。
最近には私〔本位田祥男〕と共に日本学術振興会援助の下に『比較土地制度史研究』を企図し、小野君はその日本の部を担当した。已に〈スデニ〉『日本兵農史論』の他に『日本庄園制史論』を上梓した。殊に後者は啻に〈タダニ〉従来の庄園研究を綜合したものである許り〈バカリ〉でなく、我国封建制度のあらゆる文化側面の把握に大きな貢献を為してゐる。この研究は未だ継続中であつて未刊書中の明治前期土地制度史論ば戦時中に脱稿して印刷中であつたが戦災に罹つて中絶の已む〈ヤム〉なきに至つた。併し幸に原稿が完全に保存せられてあつたので、目下出版書肆に於て印刷進行中である。斯くて江戸時代より明治時代へと研究を進めつゝあるが、それが完結すれば、土地制度史のみならす、我国の経済史学界に偉大なる金字塔を樹てる事とならう。
篤実なる小野君は吾々に度々福田徳三博士等の先学及知己の学恩と其の推輓に負ふ所多きを語るのであるが、それはやがて同君による後学の訓育及び誘導となつて現はれてゐる。大正十四年東京商科大学の講師となつたのを初めとして、各大学に農業史及び農政学を講じてゐる。然しより大きな貢献ば後学の研究を直接指導することである。殊に最近拾数年来各地に興つた所謂郷土史社会経済史的研究は同君の指導と刺戟〈シゲキ〉に俟つ所が大きい。
農業に於ける識見と洞察とは又度々小野君を実際運動に引き出した。最も力を致したのは大日本壮年団連盟であつたが、その常任理事として全国農村を馳駆〈チク〉して中堅人物の指導啓蒙に当つた。又政府委員として農民の地位向上に尽した所が少くないが、結局同君は学者としての大道を踏み外す事がなかつた。老来益々筆硯健かにして、青年に勝る業績を上げつゝある。
最後に、社会経済史学会との関係を述べたい。昭和五年末同学相諮つて同学会を創立したのであるが、その有力なる発起者たりしことは言ふ迄もない。殊に平沼淑郎博士逝去の後は事実上の責任者となり、平沼博士の後をうけて編輯並に会務の末に至るまで細心の注意を払つて聊かも怠るところがなく、年次大会の開催の際は固より〈モトヨリ〉地方部会の会合に至るまで寸暇を割いてあらゆる犠牲を省みず、これに参加出席して、その発展に努力を吝しまない〈オシマナイ〉のである。洵に〈マコトニ〉、同学会今日の隆盛は、その一半の功績を同君に負ふてゐると謂つても決して溢言〈イツゲン〉ではないのである。
小野君は昭和十八年還暦の賀を向へたのであるが、その研究は今尚ほ伸びつゝある。その学的貢献を語るには余りに早過ぎる。況んや〈イワンヤ〉棺を蓋ふて初めて定まるべき人物評論史をすべき時機ではない。然しこの人生の一の峠を越された事を祝つて、友人後学が挙つて論文集を編し、之を同君に贈ると共に、天下に公刊するに際し、私はこの小篇をものする事となつた。筆を擱く〈オク〉に際し、将来その伝記により多くの頁が加へられん事を望むものである。(昭和二十一年 本位田祥男)
文中に、大日本壮年団連盟という言葉が出てくる。インターネット上の「神戸大学電子図書システム」によれば、大阪毎日新聞の一九四一年(昭和一六)九月二六日記事に、「大日本壮年団連盟は昭和四年〔一九二九〕九月国内総力体制をめざし後藤文夫、後藤隆之助、丸山鶴吉、田沢義舗〈タザワ・ヨシハル〉の諸氏が壮年団中央協会を創設して運動を初め本年〔一九四一〕三月大日本壮年団連盟と改称、十余年にわたって民間の自主的団体として強力な運動を続けてきたものである」とある。