礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小野武夫と大日本壮年団連盟

2013-06-25 13:46:41 | 日記

◎小野武夫と大日本壮年団連盟

 二一日および二三日、小野武夫博士の「学蹟」についての文章を引用したが、本日は、その続きであり、その最後である。なお、この文章の筆者は、末尾にあるように、本位田祥男〈ホンイデン・ヨシオ〉である。
 出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)。

 最近には私〔本位田祥男〕と共に日本学術振興会援助の下に『比較土地制度史研究』を企図し、小野君はその日本の部を担当した。已に〈スデニ〉『日本兵農史論』の他に『日本庄園制史論』を上梓した。殊に後者は啻に〈タダニ〉従来の庄園研究を綜合したものである許り〈バカリ〉でなく、我国封建制度のあらゆる文化側面の把握に大きな貢献を為してゐる。この研究は未だ継続中であつて未刊書中の明治前期土地制度史論ば戦時中に脱稿して印刷中であつたが戦災に罹つて中絶の已む〈ヤム〉なきに至つた。併し幸に原稿が完全に保存せられてあつたので、目下出版書肆に於て印刷進行中である。斯くて江戸時代より明治時代へと研究を進めつゝあるが、それが完結すれば、土地制度史のみならす、我国の経済史学界に偉大なる金字塔を樹てる事とならう。
 篤実なる小野君は吾々に度々福田徳三博士等の先学及知己の学恩と其の推輓に負ふ所多きを語るのであるが、それはやがて同君による後学の訓育及び誘導となつて現はれてゐる。大正十四年東京商科大学の講師となつたのを初めとして、各大学に農業史及び農政学を講じてゐる。然しより大きな貢献ば後学の研究を直接指導することである。殊に最近拾数年来各地に興つた所謂郷土史社会経済史的研究は同君の指導と刺戟〈シゲキ〉に俟つ所が大きい。
 農業に於ける識見と洞察とは又度々小野君を実際運動に引き出した。最も力を致したのは大日本壮年団連盟であつたが、その常任理事として全国農村を馳駆〈チク〉して中堅人物の指導啓蒙に当つた。又政府委員として農民の地位向上に尽した所が少くないが、結局同君は学者としての大道を踏み外す事がなかつた。老来益々筆硯健かにして、青年に勝る業績を上げつゝある。
 最後に、社会経済史学会との関係を述べたい。昭和五年末同学相諮つて同学会を創立したのであるが、その有力なる発起者たりしことは言ふ迄もない。殊に平沼淑郎博士逝去の後は事実上の責任者となり、平沼博士の後をうけて編輯並に会務の末に至るまで細心の注意を払つて聊かも怠るところがなく、年次大会の開催の際は固より〈モトヨリ〉地方部会の会合に至るまで寸暇を割いてあらゆる犠牲を省みず、これに参加出席して、その発展に努力を吝しまない〈オシマナイ〉のである。洵に〈マコトニ〉、同学会今日の隆盛は、その一半の功績を同君に負ふてゐると謂つても決して溢言〈イツゲン〉ではないのである。
 小野君は昭和十八年還暦の賀を向へたのであるが、その研究は今尚ほ伸びつゝある。その学的貢献を語るには余りに早過ぎる。況んや〈イワンヤ〉棺を蓋ふて初めて定まるべき人物評論史をすべき時機ではない。然しこの人生の一の峠を越された事を祝つて、友人後学が挙つて論文集を編し、之を同君に贈ると共に、天下に公刊するに際し、私はこの小篇をものする事となつた。筆を擱く〈オク〉に際し、将来その伝記により多くの頁が加へられん事を望むものである。(昭和二十一年 本位田祥男)

 文中に、大日本壮年団連盟という言葉が出てくる。インターネット上の「神戸大学電子図書システム」によれば、大阪毎日新聞の一九四一年(昭和一六)九月二六日記事に、「大日本壮年団連盟は昭和四年〔一九二九〕九月国内総力体制をめざし後藤文夫、後藤隆之助、丸山鶴吉、田沢義舗〈タザワ・ヨシハル〉の諸氏が壮年団中央協会を創設して運動を初め本年〔一九四一〕三月大日本壮年団連盟と改称、十余年にわたって民間の自主的団体として強力な運動を続けてきたものである」とある。

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農学博士・小野武夫の「年譜」より(大正時代)

2013-06-24 06:19:48 | 日記

◎農学博士・小野武夫の「年譜」より(大正時代)

 昨日は、農学者・小野武夫の「学的出発点」についてまとめた文章を紹介した。
 本日は、その文章に対応する「年譜」を紹介してみよう。これは、一昨日に紹介した年譜の続きに当たり、かつ博士の大正時代の年譜である。
 出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)である。

大正二年六月   願ニ依リ農商務省雇ヲ免ゼラル
同年七月     帝国農会嘱託
同五年三月    長男英二氏出生
同六年五月    願ニ依リ帝国農会嘱託ヲ解カル
同年五月     農商務省嘱託
同七年五月    願ニ依リ農商務省嘱託解任
同年五月     海外興業株式会社調査部入社
同年八月     母堂ヨシ氏逝去、享年五十五歳
同八年三月    海外興業株式会社調査課長心得ヲ命ゼラル
同年五月     同社ヨリ新占領地起業調査ノタメ南洋サイパン島ニ渡航
同年八月     厳父清五郎氏逝去、享年五十七歳
同年十二月    海外興業株式会社企業課長心得兼務ヲ命ゼラル
同九年一月    同社主事ヲ命ゼラル
同年一月     願ニ依リ同社ヲ退社
同年一月     日本綿織物工業組合連合会嘱託
同年九月     願ニ依リ同会嘱託を解カル
同年十月     農商務省ヨリ小作ニ関スル事務取扱ヲ嘱託セラル
同十年十月    次男善作氏出生
同十三年十月   農商務省ヨリ地方小作官講習会講師ヲ命ゼラル
同年十二月    願ニヨリ農商務省嘱託ヲ解カル
同十四年四月   東京商科大学講師ヲ嘱託セラル
同年六月     論文提出ニヨリ東京大学ヨリ農学博士ノ学位ヲ授ケラル
同十五年四月   法政大学経済学部講師ヲ囑託セラル

 すでに過去のコラム(昨年九月一一日)で採り上げたが、一九一八年(大正七)の夏、柳田國男と小野武夫は、神奈川津久井郡の内郷村に赴き、同年八月に同村で実施が予定されていた農村調査の下調べをおこなった。この農村調査は、予定通り実施されたが、小野は、郷里の母親が危篤となったため帰郷し、これに参加できなかった。
 この年譜によれば、危篤となった母親は、回復することなく、同年八月に亡くなったことがわかる。
 柳田國男は、この農村調査について、のちに、「内郷村の調査は非常に面白くはあつたけれども、事業其物は失敗であつた」と回想している。小野は、農村出身であり、かつ農村調査の方法に精通していた。もしこの時、小野が調査に参加していてば、この調査は、もう少し学術的なものになったのではないかと考える。

*昨日は、どういうわけか、ブログへのアクセスが急上昇しました。ブログ開設以来のアクセス・ランキングは、以下の通り。

1位 本年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)    
2位 本年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946) 
3位 本年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む) 
4位 昨年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)    
5位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動  
6位 本年6月23日 小野武夫博士の学的出発点(永小作慣行の調査)
7位 本年4月30日 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎) 
8位 本年1月2日  殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)
9位 本年6月17日 森有礼の国語全廃論と馬場辰猪の国語擁護論      
10位 本年1月10日 『新篇路傍の石』(1941)における「文字の使用法」

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小野武夫博士の学的出発点(永小作慣行の調査)

2013-06-23 07:36:44 | 日記

◎小野武夫博士の学的出発点(永小作慣行の調査)

 一昨日、小野武夫博士の「学蹟」についての文章を引用したが、本日は、その続きである。
 出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)。

 大正二年帝国農会に入り、其処で横井時敬、桑田熊蔵、矢作栄蔵三氏の指導の下に、農政問題を研究する機会を与へられ、農業経済資料の蒐集並びに整理を担当すると共に永小作慣行の調査に従事した。殊に永小作問題は曩きに〈サキニ〉民法制度の際に於いて、西欧の法律精神を直輸入するに急にして、日本固有の慣習法を採用することを忘却してゐたことに原因したものであつて、其の頃全国各地より該問題の善後処置に関し陳情請願が相次いで提出される有様であつたが、斯かる雰囲気の裡〈ウチ〉にあつて同君の学的関心は一般農政問題と倶に、特に永小作慣行の調査に寄せられたのであつた。
 其後、大正九年に至り、農商務省に於いては小作問題対策の一つとして永小作慣行の実証的調査を計画したが当時の農政課長石黒忠篤氏は、永小作問題に就いて既に一応の知識を有する小野君を簡抜して、其の調査に当らしむることゝした。同君は、この知遇に感激して、農務局に入り、驚異的なる精力を以て全国各地を踏査し実証的史料に基いて、多数の特別研究を連続的に発表した。例へば、『深野新田永小作』、『吉野川沿岸の永小作問題』、『旧鹿児島藩の門割〈カドワリ〉制度』、『旧佐賀藩の農民土地制度』等々の調査研究は何れもこの期間の所産であつて、恐らくは同君の生涯を通じて最も学問的に力闘した時代であらう。
 これらの諸研究は学界の高く評価する所となり、帝国学土院は研究補助金を三作に亘つて同君に給与し、心おきなく研究に従事せしめた。その結果は『永小作に関する調査』(其二)となり我国の学界に大きな貢献をした。この永小作研究の副産物として起稿した『郷士制度の研究』は、東京帝国大学によつて審査され、大正十四年農学博士の学位を授けられた。以上数年に亘り発表せられた一連の労作は、当時の経済学界にとつても一つの驚異であつた。それには二つの意味があつた。一つは何等の学閥なき同君がこれだけ大きな研究を発表した点にあり、今一つは前人未踏の境地が新たに発掘されたと言ふ事であつた。我国に理論としての歴史学の唱道された事は旧いのであるが真に原資料に基ついて研究されたものは誠に蓼々たるものであつた。その際これらの労作の発表された事は我国の経済史学界のみならず、実証的なる日本経済学の発達に大きな貢献を為したものであつた。
 然しこれらは単に同君の学的出発点であつて、爾来二十年間一日も学的研究を離れず、或は農村深く分け入つて資料を漁り、或は古老に伝聞を聴き、所謂文献以外に歴史資料を求めてゐる。その間の成果は『近世地方経済史料』、『土地経済史考証』、『日本農民史料聚粋』の公刊となり、何れも斯学界の典拠として名声を博してゐる。【本日はここまで】

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農学博士・小野武夫の「年譜」より

2013-06-22 05:04:45 | 日記

◎農学博士・小野武夫の「年譜」より

 昨日の続きである。昨日は、農学者・小野武夫の学歴をまとめた文章を紹介した。
 本日は、その文章に対応する「年譜」を紹介してみよう。農学者・小野武夫の学歴が、かなり異色なものであったことは、この年譜によって、いっそう明らかになるであろう。
 出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)である。

 二 年譜
明治十六年八月三日 大分県大野郡百枝村大字川辺ニ厳父清五郎氏長男トシテ生ル
同二十四年四月 同県同郡百枝村尋常小学校入学
同二十八年三月 同校卒業
同年四月    大野郡川登村外三十一ケ村組合立高等小学校(在三重町)入学
同三十一年四月 同校三学年修了ヲ以テ大分県農学校農科入学
同三十四年五月 同校同科卒業
同年六月ヨリ同年十一月マデ 自宅ニ於テ専ラ農業ニ従事ス
同年十二月   大分県大分郡鶴崎高等小学校代用教員ヲ命ゼラル
同三十五年四月 願ニ依リ解職
同年五月    大分県北海部郡南部実業補習学校訓導ニ任ゼラル
同三十六年五月 大分県ヨリ無試験検定ニヨリ小学校農業科正教員ノ免許状ヲ授与セラル
同年七月    願ニ依リ解職
同年八月ヨリ十一月マデ 自宅ニ於テ専ラ農業ニ従事ス
同年十二月   熊本第六師団歩兵第十三連隊ニ一年志願兵トシテ入隊'
同三十七年二月 祖母君トミ氏逝去、享年六十七歳
同三十八年二月 出征
同年三月    満洲第三軍配下ニアリテ小隊長トシテ奉天会戦ニ参加ス
同年六月    陸軍歩兵少尉ニ任ゼラル
同年七月    正八位ニ叙セラル
同三十九年一月 召集解除
同年一月    大分県大野郡立農学校助教諭ニ任ゼラル
同年四月    明治三十七八年戦役出征ノ功ニヨリ勲六等ニ叙セラレ単光旭日章ヲ授与セラル
同年六月    願ニ依リ大分県大野郡立農学校助教諭ヲ免ゼラル
同年六月    東京大学農学部農場見習生
同四十年三月  東京大学農学部農場退場
同年七月    国民英学会高等科入学(夜間)
同四十一年一月 祖父君重五郎氏逝去、享年七十六歳
同年五月    農商務省雇ヲ命ゼラル
同年六月    国民英学会高等科卒業
同四十二年六月 国民英学会英文学科卒業
同四十三年六月 国民英学会英文学会話専修科卒業同年同月同会全科卒業
同年八月    佐保貞吉氏次女みゆき氏ト結婚
同年九月    法政大学専門部政治科入学(夜間)
同四十四年十二月 師範学校中学校高等女学校農業科教員検定試験ニ合格シ免許ヲ授ケラル
同四十五年七月 法政大学専門部政治科卒業

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農学博士・小野武夫の異色の学歴

2013-06-21 05:56:45 | 日記

◎農学博士・小野武夫の異色の学歴

 農学者・小野武夫については、ブログ開設以来、コラムで何度も採り上げてきたが、本日は、その学歴について、紹介してみよう。
 出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)である。

 一 学蹟
 小野武夫君は、明治十六年八月、大分県大野郡旧川辺村に呱々〈ココ〉の声を挙げた。この旧川辺村は豊後国第一の大川たる大野川の沿岸にあり、周囲を丘陵で囲まれた一種の盆地であるが、その河床が低いので、未だ嘗て一度も水害の惨禍を蒙ることなく、極めて平和なる一農村として発達し来つた〈キタッタ〉のである。現在戸数百余戸、豊肥本線に沿ふて百枝〈モモエダ〉村の一大字となつてゐる。
 由来、小野家はこの川辺村にあつて世々農を以て業としたが、特に祖父君重五郎氏はその刻苦精励の七十六年の生涯を通じて、瞬時も怠ることなく農業生産に鋭意努められた篤農であつた。この祖父君の無口の教訓は、幼少の小野君の脳裏に、忍耐と努力との貴さを強く印象づけたものと謂ふべきであらう。嘗て同君は、『農民経済史研究』の巻頭に、「顧望三十年」と題して揺藍の日を迫憶してゐるのであるが、その中心はこの祖父君への追慕であつて、名利を求めず、唯々自己の天職に終始した老祖父君の感化の偉大であつたことを察する事ができる。
 かく小野君ば中堅的な生産農家に生れ、文字通り隴畝〈ロウホ〉の間に成長したので、已に〈スデニ〉幼少より農学者たるの素質を与へられてゐたものと言ふ事ができよう。明治三十四年大分県立農学校を卒業したのであるが、在学中の成績が抜群であつたので、恩師先輩の推輓により、年齢僅かに十九歳で高等小学校に教鞭をとつた。適齢となるや一年志願兵として熊本歩兵第十三連隊に入隊し、日露戦争には当時勅令後備〈コウビ〉と称へられた老兵土を以て編成したる、後備歩兵第五十五連隊の小隊長として奉天の大会戦に参加し、武勲を樹てゝ帰還した。
 この日露戦役は同君の気宇を広大にした。凱旋後暫くは郷里大野郡立農学校助教諭として奉職してゐたが天賦の才能と熱烈なる向学心は、笈は故郷の草叢の中に埋もれる事を許さず、農政研究の為めに笈を負うて上京する事となつた。幸にして曾ての大分県立農学校長で当時農商務議蚕糸課長であつた加賀山辰四郎氏の斡旋によつて農商務省雇〈ヤトイ〉として同課に奉職し、その傍ら年来の宿望たる農政学の研究に専念した。其の順序として先づ一般高等農学と高等普通学を履修する必要を痛感し、其の為に一方に中等学校の農業科教員検定試験を目標として寸暇を偸んで〈ヌスンデ〉勉学し、他方、夜間は最初国民英学会に入学して基礎語学を習得し、次いで法政大学専門部政治科に入学して政治経済学を勉学し、昼間の余暇を以て通学しつゝ全課程を終了したのであつた。この期間は同君にとつては最も苦難の多い時代であつたが、其の恵まれたる健康と強靭なる意志力とによつて、他日大成の基礎を十二分に培養し得たのであつた。【本日はここまで】

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