礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

伊藤博文、徳川慶喜に大政奉還の際の心中を問う

2014-06-15 05:34:49 | コラムと名言

◎伊藤博文、徳川慶喜に大政奉還の際の心中を問う

 ここ数日、国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)という本を紹介している。
 本日は、同書の中から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介してみよう。『伊藤博文公』という冊子は、一九二九年(昭和四)一〇月二六日夜に、東京市公会堂で開催された「伊藤博文公遭難二十周年」を記念する講演会(主催・国民新聞社)の記録である。渋沢栄一は、この講演会には参加していない。参加して講演したかったのだが、病気のために断念したのである。
 しかし、渋沢栄一は、講演会の翌日、国民新聞記者を招き、講演の内容を口述したという。そういうわけで、『伊藤博文公』の末尾には、渋沢栄一の「講演」も載っている。

 九、伊藤公と慶喜公
 伊藤公が〔徳川〕慶喜公に対面されたのは、多分私の宅でが最初であつたと際しますが、両公について面白い話があります。いつ頃の事か一寸〈チョット〉失念しましたが、私が所用あつて横浜に参らうとすると、汽車中で偶然伊藤公に逢ひました。する公が、渋沢君、君に是非話さねばならぬことがあると云つて話されたのは斯う云ふ事でした。実は昨夜有栖川宮殿下が、来朝された西班牙〈スペイン〉皇族を晩餐にお招きになつて、両公が相客として同じく御招待を受けたのであります。その夜晩餐が済んで、相客の両公が対座された時に、伊藤公が突然慶喜公に向つて、甚だ卒爾な質問をして失礼であるが、これは拙者が永年の疑問として胸底に残されてゐる事で、いつかお目にかふる機会を得たら、お訊ねしたいと思つて居た。それは外でもないがあの政権奉還の際、公が一身を投げ出して、朝命に唯これ従ふと云ふ恭順の態度に出られたのは、全体どう云ふお考へからなされたのか、人に依つては、卑屈とも、賢明とも、表裏両様の解釈が出来るので、甚だ立入つた事であるが、当時の御心中を伺ひたいと云ひ出した。すると慶喜公は言下に答へて、それは甚だ改まつた御質問であるが、実は何もお話する程の良い思慮があつてやつたものではありませぬ。私はあの場合に、予てから申含められた親の遺命を思ひ出しました、それで私はその遺命を傍目〈ワキメ〉もふらず奉じた迄の事であります。と云ふ意外千万〈センバン〉なお答でした。それから伊藤公が其の理由をとお尋ねすると、慶喜公は如何にも謙遜な態度で、御尋ねに接して汗顔の次第に堪へませぬ、今更らお話する程の事でもありませぬが、私の生家たる水戸家の勤王は遠く義公〔徳川光圀〕以来の事であります。父の烈公〔徳川斉昭〕は殊に勤王の念の深かつた人で、私が一橋家に入つた時など非常に心配して懇々〈コンコン〉訓諭されました。私が二十歳に達した時などは、改めて小石川の邸に招かれて、これからの邦家は却々〈ナカナカ〉面倒になるが、幼少の折から教へて置いた水戸家の遺訓を忘れてはならぬ、今日は汝が成人の日であるから、特に申付けるとの事でありました。私は父の此の言葉は深く胆に銘じて、忘れた時はありませぬ、然るに後年四囲の情勢は御承知の如き有様となりましたから、あの場合私としては、此の遺命を奉ずるの外はないと考へたのであります、たゞそれだけの事で、誠に智慧のない遣り方で汗顔の外はありませぬとの返辞でありました。これを聞いて伊藤公が私に云はれるには、實は君から慶喜公の人と為りを屡々聞かされたが、それ程偉い人とは思つて居なかつた。併し昨夜の対談で全く感服して了つた、実に偉い人だ、あれが吾々ならば、自分と云ふものを云ひ立てゝ、後からの理屈を色々つける所だが、慶喜公には微塵もそんな気色なく、如何にも率直に云はれたのには実に敬服した、と云ふ様なお話がありました。

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奴隷となるより最後の一人まで奮戦する(伊藤博文)

2014-06-14 04:25:51 | コラムと名言

◎奴隷となるより最後の一人まで奮戦する(伊藤博文)

 昨日の続きである。国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、元田肇の「伊藤公を憶ふ」を紹介している。
 本日は、その四回目で、「三、日露開戦と公の決断」の後半を紹介する。昨日、紹介した部分に続き、改行なしで、以下の文章が続く。

 文章で申しますなら悚然〈ショウゼン〉として頭髪起つとでも申しますか、何とも形容しがたい有様で怒髪冠を衝くと言ん〈イワン〉よりは、髪の毛が寂しく秋風にそよぐといふやうで申されるには「露国は往年遼東還付を日本に忠告し却つて自らこれを横奪したのである、日本にとつて忙るべからざるところである、日本はこの恨〈ウラミ〉をも忍び、朝鮮の北境外に中立地帯を設けてこれを境として永く和親を図らうとまで譲歩した、然るに彼はこれをも聴かず、更に朝鮮を二分し、北一半を露国の有とし、南一半は日本の勢力範囲と認めようが、併しその一半に於ても絶対に兵備を許さぬと云ふ答へに接した、若しこれを容るゝとすれば露国には旅順あり、浦塩〔ウラジオストック〕あり、両軍港が左右に挟んで韓国を取捲いてゐるから我が日本海は全く露国艦隊の蹂躙に委する〈イスル〉ことゝなり、帝国の滅亡は僅か幾年の問題になつてしまうのである、そう云ふことに承諾するより寧ろ今に於て一戦し、不幸にして天佑帝国に与せず〈クミセズ〉、悲惨の境遇に遭遇することありとするも、尚ほ甘んじて他の奴隷とならんよりは最後の一人まで奮戦して我が大和民族が横暴の強隣に屈せず、独立のために奮戦し、焦土となし名を長く史上に留めようという最後の決心を定めたのである」と、【拍手】この時の公の容貌は実に悲壮、壮烈の極みでありましたが、而も動かざること山の如き大決心を示されました。爾後私は色々の事件に会ひましたが、特に忘れることが出来ないのはこの時の伊藤公の有様であります。次で翌十二月の末帝国議会が開かれましたが、河野廣中議長は前例に反きまして内閣弾劾の奉答文を提出致し、外交は優柔不断にして機宜〈キギ〉を失し、内政は無能なりといふ極めて激烈なる文意でありまして、これがため議会は直ちに解散になりました。当時私は之を河野氏等が未だ最後の決心を固めた廟議を知らずして出されたのであらうと思ひましたが、その後種々考へて見ますとそれのみではなく、或は公が密かに民心を激励せしめんとする微意のほのめきが遂に斯様な事になつたのではなかつたらうかと思はれます。公は斯くの如く国民の義憤を絶頂まで激昂せしめて戦機の熟するのを待ち、翌年〔一九〇四〕の二月御承知の通り旅順港外の砲声一発、遂に国を賭したる背水の日露戦争が開始せられたのであります。当時連戦連勝の結果を挙ぐることの出来たのは海陸軍将士の画策奮闘その他幾多の理由あるは勿論でありますが、その国民の義憤の甚大なりしこと亦与かつて〈アズカッテ〉大なるものと思ひます。又当時の首相は桂公でありました、従て大政燮理〈ショウリ〉の中心は桂公であらねばならぬ、併しながら伊藤公は元勲第一であつて、大事の時には御前会議に必ず出席して先づ発言せられたのであります。桂首相が、伊藤公が如何に元老であるからと云つて、どうも私が首相としてやつてゐることに干渉されて困つたといふことを漏らされたやに私は聞いて居ります、茲にこれを追想致しますれば、一面には桂首相を鞭撻し、一面には国民の義憤を激働せられたのであります、公の国家を担ふ大決心、大英断と注意の周到なりしこと、実に敬服に堪へないのであります、公が又朝鮮の統治に思ひを致され、統監として庶政を釐革〈リカク〉されたことは唯今倉富〔勇三郎〕さんからその一端をお述べになつた通りであります。斯くして公は遂に朝鮮人も内地人同様、均しく我が皇恩に浴し共存共栄の基を啓かれたといふことは何人も異論のないところと存じます。

 伊藤の発言中に、「帝国の滅亡は僅か幾年の問題になつてしまうのである、そう云ふことに承諾するより寧ろ今に於て一戦し、不幸にして天佑帝国に与せず、悲惨の境遇に遭遇することありとするも、尚ほ甘んじて他の奴隷とならんよりは最後の一人まで奮戦して我が大和民族が横暴の強隣に屈せず、独立のために奮戦し、焦土となし名を長く史上に留めようという最後の決心を定めたのである」という部分がある。これは、日米戦突入直前における、日本の軍部中枢の発想と、ほとんど変わるところがない。
 歴史は繰り返すという感を強くする。ただし二点、異なるところがある。一点は、言うまでもなく、日露戦が、奇跡的に日本の勝利に終わり、日本が「焦土」となることはなかったのに対し、日米戦では、日本が完敗して、日本が「焦土」と化したことである。
 もう一点は、伊藤が、「最後の一人まで」と言ったときの「一人」とは、将兵を指していた(まだ、「総力戦」の時代ではない)。しかし、日米戦突入直前の時点において、軍部中枢が「最後の一人まで」と言ったとすれば、その「一人」とというのは、日本臣民を指していたということである。
 なお、文中、【拍手】とあるところは、行間に鉛筆書きで付記された文字である。おそらく、この本の旧蔵者が、速記録あるいは記憶をもとに、補訂したものであろう。この種の手書きよる補訂は、ほとんど、元田肇の「伊藤公を憶ふ」の部分に限って、なされている。この本の旧蔵者は、この本の編集担当者、あるいは元田肇本人だった可能性がある。

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伊藤博文曰く、日露戦に成算はない(1903)

2014-06-13 05:35:34 | コラムと名言

◎伊藤博文曰く、日露戦に成算はない(1903)

 昨日の続きである。国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、元田肇の「伊藤公を憶ふ」を紹介している。
 本日は、その三回目で、「三、日露開戦と公の決断」の前半を紹介する。

 三、日露開戦と公の決断
 日露戦争の前年、即ち明治三十六年〔一九〇三〕の十一月末であつたと記憶して居ります、私は日露の国交が危機に迫り、御前会議があつたといふことを聞きまして、公を追つて大磯の滄浪閣に参りましたが、公は一切面会を謝絶し会はれません。私は若し御許しがなければ御許しになるまで此処を去りませんと強要致しましたが、公が塔ノ沢の環翠楼に行かれるとのことで私も亦同所に参りました。そこで公は私に面会を許されましたが、頗る御機嫌が悪く、坐に就くと「何用あつて会見を迫るか」と申されました。私曰く「日露の関係廟議〈ビョウギ〉は如何に決せられしか承りたい」公曰く「斯くの如きは国家の大事である、今足下に語るべき秋〈トキ〉でない」と言下に拒絶されました。其処で私が申すには「政友会は公の創立せられた大政党である。この大政党の嚮ふ〈ムカウ〉ところ如何に依つて帝国の存亡興廃に関するところなしとは云ふべからず、従つて党の方向を誤らざらしめんとせば廟議のあるところを知らずして可なりや、況んや不肖等常に公の指導を重んじ総務の職にあり、党員の行動を監視し居る者に於てをや」と、この時私の態度は頗る激越でありました。ところが公は暫く沈吟して居られましたが曰く「足下の言一理あり、併し事最も秘密に属す、若し秘密の漏れるやうなことあらば国家の大事である、足下は秘密が守れるか、万一の場合は足下の首を申し受けるぞ」私曰く「不肯なれどもその覚悟は致して居ります」と、茲に於て公は形を改めて「廟議は戦に決した」と一言述べられました。私曰く「成算がありますか」、公の曰く「成算はない、財政の上から云つても、兵備の上から云つても、地理の上から云つても、何れの点に於ても、露国に勝つといふ成算はない」、私曰く「成算がなくして戦に決する理由は如何」斯様に申しますと見る見る中に公の顔色は変りました。【以下、次回】

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伊藤博文、岩倉具視に頼まれ大久保利通の幕賓となる

2014-06-12 06:33:40 | コラムと名言

◎伊藤博文、岩倉具視に頼まれ大久保利通の幕賓となる

 昨日の続きである。国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、元田肇の「伊藤公を憶ふ」を紹介している。
この文章(講演の速記録)は、前置き的な文章のあと、「一、少壮、長藩の密偵として彦根藩に住み込む」、「二、身命を賭して国事に奔走す」、「三、日露開戦と公の決断」、「四、立憲政友会の創立」と続き、「五、国歩艱難の秋偉人を思ふ」で終わる。昨日は、「一、少壮、長藩の密偵として彦根藩に住み込む」の全文を紹介したが、本日は、「四、立憲政友会の創立」の最後のところを紹介する。

 尚ほ一言〈イチゴン〉せねばならぬことがあります。そは公が薩長の間にありて亀裂動揺を防止した事であります。幕府政権を奉還し、三百諸侯封土を返還し、維新の大業も漸く確立せんと致しましたが、薩長の間に動も〈ヤヤモ〉すれば亀裂動揺の端を発せんとした。岩倉〔具視〕公はこれを憂ひて伊藤公に向ひ、誠に忍びないところであるが、お前は長州人であるけれども、大久保〔利通〕側に居り調停を図つて呉れと懇望せられました。茲に於て伊藤公は表面木戸〔孝允〕侯に背いた形になつて、大久保公の幕賓となり、薩長間の亀裂を防止するに努めたのであります。私共がこの事実を知り得たのは伊藤公の還歴祝の席でありました。山県〔有朋〕公が祝辞を草して贈られました。その文中に伊藤公が国家のために尽されたことは幾等〈イクラ〉あるか知れぬが、多くは世上に知られてゐる、秘密のことも沢山あるが併しこれも知るものは知つてゐる。唯一つ知れて居らぬことで伊藤公が終生遺憾に思つてゐられることが一つある、これは山県が云ふよろ外あるまい。維新の業漸く成らんとして薩長の勢力争が起り、如何なることになるかも分らぬといふ場合に、伊藤公が岩倉公の頼みに依り大久保の幕賓となつて薩長の間を調停し、途に破綻に至らしめなかつたその苦心は山県より外に証明するものはない、今日は還歴の宴を開くまでに天寿を全うされて芽出度い〈メデタイ〉といふ祝辞を読まれた時であります。この時伊藤公は井上〔馨〕伯等の旧志友と相抱擁し泣いて当年の苦衷を語られ、桂〔太郎〕首相が来賓を代表しての祝詞には耳をも傾けず、桂公は不満に思はれた程であつたといふことであります。

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若き日の伊藤博文は密偵として彦根藩に潜入していた

2014-06-11 05:28:25 | コラムと名言

◎若き日の伊藤博文は密偵として彦根藩に潜入していた

 昨年、古書展で国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)という冊子を入手した。
 国民新聞社は、一九二九年(昭和四)一〇月二六日夜、東京市公会堂で、「伊藤博文公遭難二十周年」を記念する講演会を開いた。右の冊子は、そのときの講演記録である。
 なかなか興味深い文献であるが、本日は、その中から、元田肇〈モトダ・ハジメ〉の「伊藤公を憶ふ」の一部を紹介してみよう。

 一、少壮、長藩の密偵として彦根藩に住み込む
 さて伊藤公は少壮にして木戸〔孝允〕公に従ひ、各地に奔走されたといふことは皆様ご承知のことゝ存じますが、僅か十幾歳の時に長藩の密偵して井伊家の老職の家に若党として住み込み、幕府方の動静を探られて居つたといふことであります。このことは私が曽つて東海道の汽車中で元彦根藩士の谷鉄心翁に聞いたのであります。谷翁は今日のことは知らぬが、維新前のことならば生き歴史といつてもよいと色々話を致しまして、その中に明治維新になりまして京都で参与その他の役人が勤王の志士中より選任され、谷翁もその中の一人で太政官に出仕中、「私は今日兵庫県令に拝命致しました不肖の身でありますが何分宜しく願ひます」と挨拶に来た男がある。それを見るとどうも何処かに顔に覚えがある「どうも君は始めて御目にかゝるのではない、何処かで会つたことがある様だ」と申しますと、「私は屡々お宅に伺つたことがあります」「どういふ機会に」「実は若い時分に彦根藩の老職の某家に若党として住み込んで居りました、その際貴方のお顔を拝しました」といふのを聞き、茲に始めて長藩の密偵たりしを知り驚きました。世の中に伊藤公は文弱の政治家で胆力に乏しいといふものがあるが、僅か十七、八歳の時に長藩の密偵となつて幕府方の中心彦根藩の老職の若党に住み込んで、その秘密を探るといふことは胆力のないものが出来るものか、今の奴等は何に知らぬのだと云はれ、私も始めて之を知つたのであります。伊藤公が少壮の頃から如何に藩の先輩から認められたかはこの一事でも知らるゝのであります。

 ウィキペディアの「元田肇」の説明、コトバンクの「谷鉄臣」(鉄心は号)の説明を紹介しておく。

元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日(安政5年1月15日)-1938年(昭和13年)10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。

谷 鉄臣 たに-てつおみ 1822-1905 幕末-明治時代の武士,官吏。文政5年3月15日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)彦根の町医者の長男。江戸、長崎で経学、蘭方をまなび、家業をつぐ。文久3年彦根藩士にとりたてられ、藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官。明治38年12月26日死去。84歳。旧姓は渋谷。初名は退一。字(あざな)は百錬。通称は■太郎。号は太湖。*■は、馬ヘンに留

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