礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「百家説林」の難読語(「イ」ではじまるもの)

2014-06-20 05:16:21 | コラムと名言

◎「百家説林」の難読語(「イ」ではじまるもの)

 昨日の続きです。『百家説林 索引』(吉川弘文館、一九〇七)から、難読語の読みに関するクイズを出してみます。本日の言葉は、すべて、「イ」ではじまるものです。

1  烏賊
2  碑文
3  移徙
4  勤臣
5  五十集
6  虎杖
7  灼然
8  齋女
9  稲置
10 電光
11 矼
12 諱
13 煎炭
14 入間詞
15 忌瓮

 昨日のクイズの解答
1  襖    あお
2  白馬   あおうま
3  銅    あかがね
4  胡床   あぐら
5  山女   あけび
6  袙    あこめ
7  足半   あしなか
8  鹹草   あしたぐさ
9  天窓   あたま
10 紫陽花  あじさい
11 四阿   あずまや
12 穴磯   あなし
13 鐙    あぶみ
14 花瓦   あぶみがわら
15 障泥榑風 あふりはふ(あおりはふ)
16 蜑    あま
17 糠蝦   あみ
18 文杉   あやすぎ
19 在根良  ありねよし
20 編版   あんだ

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「百家説林」シリーズに含まれる難読語

2014-06-19 14:16:24 | コラムと名言

◎「百家説林」シリーズに含まれる難読語

 昨日、某書店の百円均一の台から、『百家説林 索引』(吉川弘文館、一九〇七)という本を拾い上げました。「百家説林」シリーズに含まれる諸作品で使用されている語句の索引でした。
 本日は、この索引から、難読語の読みに関するクイズを出してみます。難問なので、ヒントを言いましょう。すべて、「ア」ではじまり、しかも、アイウエオ順になっています。それでも、かなり難しいと思いますが、ぜひ挑戦してみてください。解答は明日。

1  襖
2  白馬
3  銅
4  胡床
5  山女
6  袙
7  足半
8  鹹草
9  天窓
10 紫陽花
11 四阿
12 穴磯
13 鐙
14 花瓦
15 障泥榑風
16 蜑
17 糠蝦
18 文杉
19 在根良 
20 編版

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朝鮮を来して清を窺い、南州を取りて印度を襲わん

2014-06-18 03:51:28 | コラムと名言

◎朝鮮を来して清を窺い、南州を取りて印度を襲わん

 昨日の続きである。香川政一の『松陰逸話』(含英書院、一九三五)から、第三次日韓協約の調印(一九〇七年七月二四日)の直後における、伊藤博文の逸話を紹介している。本日は、その三回目(最終)。明日は、話題を変える。

 抑〈ソモソモ〉松陰先生が朝鮮の気にかけられるといふのは何の故でせうか、これには少しく御話があります、安政三年〔一八五六〕八月一日先生から、幼時指導を受けられた山田頼毅〔宇右衛門〕翁に与へられた書に、
「満洲を収めて魯に逼り〈セマリ〉、朝鮮を来して〈キタシテ〉清を窺ひ、南州を取りて印度を襲はん」
といひ、又同年四月十八日来原良蔵〈クルハラ・リョウゾウ〉に与へられた書にも
「和親して二虜(露、米)を制し、間に乗じて国を富まし兵を強くし、蝦夷を墾して〈タガヤシテ〉、満洲を奪ひ、朝鮮を来して、南地を併せ、然る後に米を拉ぎ〈ヒシギ〉、欧を折く〈クジク〉、事成らざるなし、」
と言つて居られます、是は先生の地理学上から出た識見で、我国はどうしても大陸に立脚せねば、欧米と、対立することは出来ぬといふの意見であります、これはとても当時の他の攘夷家などの及ぶ所ではありません、
 是で先生と朝鮮との関係も明かになりましたらうが、先生の語に奪ふとか襲ふとかいふことのありますのは、当時の常套語で、之を今日から見て侵略主義と解しては間違ひます、【以下略】

 

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寅次郎さん、朝鮮のことはもう安心せよ

2014-06-17 05:30:51 | コラムと名言

◎寅次郎さん、朝鮮のことはもう安心せよ

 昨日の続きである。香川政一の『松陰逸話』(含英書院、一九三五)から、第三次日韓協約の調印(一九〇七年七月二四日)の直後における、伊藤博文の逸話を紹介している。

 白上〔俊一〕市長から先づこのことが〔杉〕民治翁に伝へられたのは、八月十六日でありました。民治翁は誠に悦ばれて、奥さんに命じられて平生は決して着用せられぬ一番の晴衣の紋服〈モンプク〉と袴とを出させて之を着用し、御宅の前に県社として崇められてある松陰先生の霊前に立ちて、
「寅次郎さん伊藤から言伝て〈コトヅテ〉があつた、朝鮮のことはもう安心せよといふことぢや、さうして伊藤がおまへに御世話になつた礼を、よく言つて呉れよとの事ぢや、」
と生ける人に物言ふ如く言はれるのを、多くの人が集つて見て、全く芝居を観るやうだと言ふ人もあり、感涙に咽ぶ人もあつたさうであります。
 斯くて杉翁は其の日御馳走を拵へて〈コシラエテ〉、村塾関係の生存者や親族を招き、之を披露して共に悦ばれました。
 著者〔香川政一〕は当時県下佐波郡〈サバグン〉中関〈ナカノセキ〉に在職して居り、夏休みで帰省して十七日に翁を訪問しますと、翁は大悦びで前日のことを言ひ出し、又御馳走を出して著者に饗応されました、その時翁の言葉に、
「流石は伊藤であります、かふいふ時に有り難いといふことを忘れません、」
と言はれました。【以下、次回】

 このあと、吉田松陰と朝鮮の関わりについての話になるわけだが、これは次回。

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ハーグ密使事件(1907)と吉田松陰

2014-06-16 05:10:06 | コラムと名言

◎ハーグ密使事件(1907)と吉田松陰

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)に収録されている諸編のうち、最も資料的な価値が高いのは、おそらく、倉富勇三郎の「伊藤公と韓国司法制度」であろう。しかし、この紹介は、機会を改めておこなうこととし、本日は、別の本の紹介をしたい。ただし、テーマはあいかわらず、伊藤博文である。
 香川政一の『松陰逸話』(含英書院、一九三五)は、タイトルの通り、吉田松陰の逸話を集めた本であるが、その中に、伊藤博文の逸話が紹介されている。本日はこれを紹介してみよう。

 時代は明治のことになりますが、明治四十年〔一九〇七〕七月といふと、海牙〔ヘーグ〕会議(第二回万国平和会議)に、韓国皇帝の密使が現はれ、日本帝国の多年の好意を無視して、列国の共同保護を得ようと計画したことがあります〔ハーグ密使事件〕、幸に当時の列国は賢明にして之を顧みず、却つて韓国の背信を賤み〈イヤシミ〉、事失敗に帰しましたが、当時初代の韓国統監たりし伊藤博文公は、輿論の帰向を察して、韓国の兵権を我手に収め、韓国皇帝は其の十九日〔同年七月一九日〕に位を太子に譲られ、二十日に太子の朝見式があつて、光武といふ年号は隆凞といふ新年号に代へられました、乃ち伊藤公は太子の太師たる重任を帯びられて、我が陛下に経過を奏上するため、八月十一日京城を発して、帰朝の途に上り、八日十三日に下関に着船せられました。
 下関市長の白上俊一氏が先づ埠頭に出迎へすると、公は言はれました。
「君は萩の人だから一つ依頼することがある、萩の松本に松陰先生の兄〔杉〕民治〈ミンジ〉翁が居られる、其処へ言うてやつて貰ひたいのだが、松陰先生も朝鮮のことが種々御気懸りであつたらうが、不肖ながら伊藤が太子太師となりましたので、軈て〈ヤガテ〉は太子を日本にお連れ申して御教育もする積りであるから、先生も何卒地下で御安心遊ばすやうにと、松陰神社に申上げて貰ふのだ、さうして序に〈ツイデニ〉伊藤が斯くなつたのも、全く先生の御蔭であると感謝して貰ふのだ、」
 此の日萩からは瀧口吉良、国重政亮、岡十郎の諸氏並に、三田尻の毛利公爵邸に仕へて居られた民冶翁の嗣子、杉相次郎氏も下関に出迎へられましたが、伊藤公は次々にこれ等の人に逢ふや、又皆同じことを依頼せられました。【以下、次回】

 統監府統監・伊藤博文は、ハーグ密使事件を捉えて、一九〇七年七月二四日、第三次日韓協約を成立させる。伊藤にとって、この第三次日韓協約は、師である吉田松陰に報告するに値する大きな成果だったことがわかる。

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