礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

空襲警報発令にともなう迂回乗車と発駅送還

2016-01-26 04:42:21 | コラムと名言

◎空襲警報発令にともなう迂回乗車と発駅送還

 昨日の続きである。情報局編輯集『週報』401・402合併号(印刷局、一九四四年七月五日)から、「空襲時の非常対策」という記事のうちの、「鉄道」の項目を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

三、旅客の乗車変更
 空襲警報の発令された地区の中の或る地区通過となる乗車券所持の旅客に対しては、必要ありと認められる場合には、旅客運賃を追徴されることなく、その乗車券をもつて旅客の希望により、他の経路による迂回乗車の取扱がなされる。この迂回乗車によつて、乗車券の通用期間が経過する場合には、適宜有効の証明が受けられる。
 また、空襲警報発令中の地区に到着する乗車券所持の旅客、または同地区通過となる乗車券所持の旅客が、空襲警報が発令されたため旅行を中止し、発駅送還を申出る場合は、発駅または途中駅まで無賃送還の取扱を受けることが出来る。
 この場合、送還終了駅においては途中下車の取扱がなされ、再び旅行を継続しようとする場合、通用期間が経過するときは通用期間延長の請求をなすことが出来る。
 この場合は警報発令期間に相当する日数以内、通用期間の延長が認められる。
 列車または汽船を指定した乗車券所持の旅客が、空襲警報発令により退避その他交通遮断のため、指定の列車、汽船に乗車不能となつた場合には、その事情明らかなるものに限り、旅客運賃、急行料金が払戻される。
 なほ、このほか情勢に応じて、諸種の制限、または停止の処置が講ぜられることがある。
四、小荷物、貨物の取扱
 小荷物の取扱については、空襲警報発令間は或る地区においてはその受託、引渡し事務は原則として停止される。しかし小荷物扱中の旅行用品の引渡しは停止されず、また軍用品、新聞紙、新聞原稿その他、緊急運送を必要とするものは遅延承知の特約の下に受託される。敵機来襲の場合においては、旅客の取扱と同様、小荷物の取扱も一切停止される。貨物もだいたい小荷物と同様である。

「迂回乗車」という言葉は、今ではあまり聞かない。他車線を利用する(させる)「振替乗車」の措置が、採られることが多くなったからであろうか。
「発駅送還」という言葉も、今ではあまり聞かない。しかし、「無賃送還」という言葉は、今でも使われている。JR東日本の「旅客営業規則」の第二八四条に、「第二八二条第一項の規定により旅客が無賃送還の取扱いの請求をした場合は、次の各号に定めるところにより取り扱う。」とある。それにしても、「送還」などという官僚的な用語が、今日なお、死語になっていないのは、ひとつの驚きである。
 明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2016・1・26(1・3・10位にやや珍しいものが入っています) 

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警戒警報が発令されると入場券の発売は停止

2016-01-25 06:18:40 | コラムと名言

◎警戒警報が発令されると入場券の発売は停止 

 昨日の続きである。情報局編輯集『週報』401・402合併号(印刷局、一九四四年七月五日)から、「空襲時の非常対策」という記事のうちの、「鉄道」の項目を紹介している。本日は、その二回目。

二、旅客の取扱
 警戒警報発令間においては、旅客の取扱は原則として平常通り行はれるが、入場券だけほ発売を停止される。
 空襲警報が発令された場合も、危険が切迫しない限り旅客の取扱は一応平常通り行はれるが、左の処置が講ぜられる。
一、特殊乗車券類の発売停止――即ち定期乗車券、回数乗車券、団体乗車券、貸切乗車券または急行券は原則として発売停止となる(たゞ当日分の急行券と前記の乗車券のうち、駅長において特に必要ありと認めたものは、例外として発売される)。
二、特殊割引乗車券の発売停止――即ち学生割引、移住者割引、就職者割引等の特殊割引乗車券は発売停止となる。
(しかし公務割引、下士官割引、入営割引、応徴者割引による各割引乗車券は、軍公務に支障を生ずる場合も予想されるので取扱停止はされない)。
三、異級乗車券の発売停止――単一等級の乗車券を売ることが、原則とされ、異級乗車券は発売停止となる。
四、船便指定の取扱停止――船便指定は原則として数日前に、取扱ふこととなつてゐる関係上、汽船出発の当日分を除き、取扱停止となる。
五、旅客運賃払戻しの取扱停止――旅客運賃の払戻しは、空襲警報解除後にその処理に応ずるのが建前となつてゐる。
 これがため通用期間の関係等で、空襲警報解除後における払戻しの処理に支障を来さないやう、必要により乗車券面に証明がなされることになつてゐる。
六、携帯品一時預けの受付停止
 なほ、空襲警報発令後、情勢緊迫した場合には、右に拘はらず一切の乗車券の発売が停止され、しかも乗車が禁止されることがある。
 たゞし非常線通行証または官公衙〈カンコウガ〉発行の相当旅行証明書を所持する緊急重要旅客については、列車の運転が続けられる限り、特に乗車が認められる場合がある。敵機来襲の場合には、一切の旅客の取扱が停止されることはいふまでもない。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・1・25(2・3・4位に珍しいものが入っています)

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敵機に遭遇した列車は長緩汽笛を発して徐行

2016-01-24 04:19:10 | コラムと名言

◎敵機に遭遇した列車は長緩汽笛を発して徐行

 本日は、情報局編輯集『週報』401・402合併号(印刷局、一九四四年七月五日)にあった記事を紹介する。この合併号の特集は「防空必勝の訓」。この特集のタイトルを見るだけで、戦局がすでに不利になっていることがわかる。
「空襲時の非常対策」という記事があり、「金融」、「衣・食・住」、「鉄道」、「通信」の四項目について説明がなされている。本日は、「鉄道」の項目を紹介してみる。

空襲時の非常対策□□□□□□□□鉄 道
 敵機空襲下における列車旅行はどうなるか。むろん情勢に応じて臨機の措置をとらなければならないが、機に応じ変に対処する万全の構へを用意してゐる。
一、列車の運行
 空襲警報発令中も、列車は原則として平常通りの運転を建前とするが、臨機の措置として旅客、貨物の輸送状況を睨み〈ニラミ〉合せ、その後の混乱が予想される場合は、予備車用にあてるため間引【まびき】運転を行ふ。
 空襲警報発令後、情勢緊迫した場合には、地域により一般旅客を降車待避させる(但し防空緊急要員の証明書所持者を除く)。
 同警報発令後にこの情勢がさらにつゞく場合には、運転を臨時変更して、途中区間までで打切り、定刻前の早発、通過駅の停車、停車駅の通過、経由線変更などを行ふことがある。
 列車運転中、敵機に遭遇した場合には、長緩汽笛〈チョウカンキテキ〉一声を吹鳴しながら徐行、車掌もこの旨を乗客に通告する。乗客は係員の指示に従ひ、決して単独行動をとらない。
 車内の退避方法はガラス戸を開け〈アケ〉、鎧戸〈ヨロイド〉を締めて、窓よりに手廻品などを集積、乗客は通路に低姿勢をとる。
 情勢によつては予定の経由線を通らず、迂回して輸送する場合があり、また敵機来襲中は原則として列車を駅構内に停止させない。
 車内や駅構内の退避は、必ず乗務員、係員の指示に従つて沈着敏速な行動をとること。
 なほ列車不通個所、事故など、駅への電話問合せには答へない。必要な事項は各駅毎〈ゴト〉に掲示する。
 省線は空襲警報発令下には、原則として運転するが、敵機来襲の場合には全部運転停止する。運転中の電車は最寄駅に入つて乗客を降車させ待避させる。【以下、次回】

「長緩汽笛」というのは、気笛合図に用いられる気笛のひとつで、約四秒鳴らすものを言う。約二秒のものを適度気笛、約〇・五秒のものを短急気笛という。これらを組み合わせたものが汽笛合図である。
「鎧戸」というのは、ブラインドのことである。昭和三〇年代前半までは、窓に木製の重そうなブラインドが付いている列車が走っていたと記憶する。
「省線」というのは、鉄道省線の略だが、ここでは「省線電車」の意味であろう(のちの「国電」、「E電」)。敵機来襲の際、省線電車の場合は、「最寄駅に入つて乗客を降車させ待避させる」。しかし、一般の列車の場合は、「敵機来襲中は原則として列車を駅構内に停止させない」ということになっていたようだ。

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中国の民衆と社会を記録した後藤朝太郎

2016-01-23 03:53:23 | コラムと名言

◎中国の民衆と社会を記録した後藤朝太郎

 昨日に引き続き、劉家鑫さんの論文「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、一九九七年三月)を紹介する。同論文は、「はじめに」、「一、後藤朝太郎その人」、「二、『大陸浪人』と『支那通』」、「三、後藤朝太郎の中国認識の特質」、「四、後藤朝太郎研究の視覚」、「むすび」の六節によって構成されている。本日、紹介するのは、「四、後藤朝太郎研究の視覚」。

四、後藤朝太郎研究の視角
 後藤朝太郎についての研究書はない。その著作のみが「参考文献」となる。後藤は生涯のうちに、百冊以上の著作を書き残した。その三分の一は中国の言語に関するものであり、後の三分の二は中国の社会、政治、伝統文化、民族性、特に庶民生活などの諸問題を観察し分析したものである。
 後藤の著作は、極めて繁雑でかつ駄作も多かったので、これまで文学研究者はあまり彼を取り上げなかったし、また歴史の事実とくに具体的な事件や人物、時間や場所があまり出てこないので、歴史・社会学者もせいぜい彼の著作を、一部歴史背景の傍証資料として使用しただけである。いずれも真っ正面から彼の著作を研究対象としたことはなく、いわゆる無視される傾向にあった。
 そして後藤の著作は、決して高貴古雅なものではない。著作というよりも、むしろ大陸旅行記、中国リポート、エッセイ集と言って相応しいようなものがたくさんあった。三石の言い方では「後藤朝太郎の文章がだらだらと現象を羅列するのに反して、〔井上〕紅梅の文章は分析的、求心的で説得力がある」。まさに氏の批評は的確だと思う。
 しかし後藤の作品は、当時の中国を多面的に描写している。ある意味で言えば、民国時期の小百科全書の役割を果たしていると言っても過言ではない。現在において、民国時代の社会状況や日中関係、とくに本世紀〔二〇世紀〕20~40年代の日本知識人による中国観の研究に、少数派文人の一典型という点で、歴史的意義のある資料を提供している。彼が如実に中国の社会事情を記録し、終始、当時の中国民衆をめぐって、その観察眼を各方面に向けさせたことは非常に独特なところである。つまり彼の観察、記述、分析の力点はいつも目前中国の社会と民衆にあったのである。民衆と社会という要素を彼の政治・社会観、庶民の経済生活鑑賞、土俗的民族風習、伝統文化観および日中関係論など、中国観のあらゆる方面に貫いている。
 以上のことから今後の後藤朝太郎研究において、幾つかの方面からの分析が可能になる。たとえば、前述で示した通り、①国家と社会の乖離〈カイリ〉、②民衆と経済生活、③古き中国と伝統文化、④日中関係のあり方などである。それらは見本になり、後藤朝太郎の中国認識についての批評の始まりになる。またほかに、中国民衆と風俗習慣や軍隊・匪賊・土豪の関係、庭園文化や文物論考などに対しても後藤は多くのことを描いた。これらも研究すべきところである。
 今後は後藤朝太郎の中国政治観、社会観、伝統文化観、庶民生活鑑賞、軍閥混戦期の社会組織および日中関係論の諸視角から研究を進め、その特質を分析していく。また一概に後藤の中国認識と称しても、その中国観が通時的に一様だったわけではなく、時代とりわけ民国時期の中国政治舞台の変動や日本の対中政策の変化と共に、ある程度の変貌を遂げてきていることも想像できる。つまりその中国観の変化にも留意しなければならない。
 日本的風土に、日本的性格が生まれる。その日本的性格は、外殻と内殻の構造性をもっている。第一次大戦期から昭和10年代における対中国認識の場合、外殻として中国を尊敬するのであっても、内殻としては目前的中国を蔑視する傾向が圧倒的に強かった。日本人が中国を見る場合、伝統文化、古典精華、つまり古き中国を認め、評価ないし崇拝する一方、近代的な国民国家形成期における中国の立ち遅れに失望感を抱いた。目前的中国を蔑視したり、現実社会を否定したりした。すなわち、日本人による中国観には二重性の問題が存在している。
 後藤朝太郎についての研究が進むにつれて、そのような二重性の間題も提起されるはずである。ただし、あながち彼本人がそのような裏表をもったとは限らないが、時代風潮の坩堝〔ルツボ〕の中に生きた彼が、どのようにそれを克服して日中間の障壁を乗り越えようとしたかを分析するのは歴史的意義がある。

 後藤朝太郎については、まだまだ紹介したいことがあるが、明日は、いったん話題を変える。

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後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡

2016-01-22 04:22:50 | コラムと名言

◎後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡

 今月九日のコラム「後藤朝太郎著述書目(1939)」において私は、後藤朝太郎〈ゴトウ・アサタロウ〉は、一〇〇冊以上の著書を持つ学者であるにもかかわらず、「ほとんど研究がなされていないない」と述べた。この発言は、撤回しなければならない。
 その後、国会図書館に赴いて調べてみたところ、一九九七年以降、数は多くないものの、後藤朝太郎に関する、きわめて手堅い研究が発表されていたことに気づいた。
 本日は、そうした論文のひとつである劉家鑫さんの「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、一九九七年三月)を紹介してみたい。なお、論文掲載時における劉さんの肩書は、「新潟大学大学院(博士課程)現代社会文化研究科在学」である。
 この論文は、一六ページに及ぶもので、「はじめに」、「一、後藤朝太郎その人」、「二、『大陸浪人』と『支那通』」、「三、後藤朝太郎の中国認識の特質」、「四、後藤朝太郎研究の視覚」、「むすび」の六節によって構成されている。本日は、このうちから、「一、後藤朝太郎その人」を紹介してみる。

一、後藤朝太郎その人
 後藤朝太郎は1881(明治14)年4月、広島県人で平民の後藤栄太郎の次男として愛媛県に生まれた。五高(現熊本大学)時代、あまり目立つ生徒ではなかったらしい。1903年9月、五高から東京帝国大学文科大学言語学科に入学、同窓に橋本進吉、一年後輩に金田一京助が入学している。在学中にマックス・ミューラーの『言語学』(博文館)を翻訳、出版し、早くも識者間にその存在を知られるようになった。1907年7月、大学を卒業、膨大な卒業論文「支那音韻K.T.Pの沿革と由来」には、言語学科主任助教授藤岡勝二の「苦心のあとは明らかに認められる」「論述の方法は大体に於いてよく」などという評語が加えられている。この大学在学の期間は、彼の立身出世の前史に当たるだろう。
 三石善吉〈ミツイシ・ゼンキチ〉は、大学を出てからの後藤の活動を、およそ三つの時期に分けて考えている。第一期は、文字学者、少壮言語学者朝太郎ともいうべき時代で、1907(明治40)年から1917(大正6)年ごろまでの、ほぼ十年間である。1907年9月、後藤は大学院に進学した。「支那語の音韻組織」というのがその研究テーマである。大学院に入ると、彼は言語学を武器に漢字、漢字音の大海に分け入り、旺盛な執筆活動を続け、大学院在学の五年間に、七冊もの著作を世に問うた。彼が大学院を卒業するのが、1912(明治45)年7月、31歳の時であるが、少壮言語学者としての後藤の評価はこの大学院在学中に定まったと言える。こうして、後藤は言語学者から出発した。
 後藤が大学院を卒業する前、アジアの世界は疾風怒涛の時代に入る。そして、この第二期の後藤は文字学からさらに広い規野をもつ「新しい支那学」を提唱するようになる。1918(大正7)年ごろから26(大正15)年ごろまでの時期である。彼の「新しい支那学」とは、従来の経学、歴史、文学のほかに「新しい支那」の「国民生活なり社会の実生活なりの方面」の研究を加えた学問、要するに、総合的な「文明史」の樹立にほかならない。
 三石氏によれば、後藤朝太郎にこの変化をもたらしたものは、以下の四つの要素である。第一に、大正のデモクラチックな時代精神、民衆の動向が観念的にではあれ、大いに重視されたこと。第二に、後藤の文字学・言語学に内在する二つの契機、一つは「少壮文法学派」に固有の現実主義・自然主義的傾向、他の一つは、彼の文字学が「土俗人類学」への傾斜を本来的にもっていたことによる。第三に、従来の漢学が完全に時代遅れのものとなり、青年を引き付けなくなったと後藤が認識していたこと。第四に、度重なる中国旅行のうちに、後藤は魯迅の言う「支那中毒」にかかってしまったことによる。
 特にこの第四の点は、この時期の後藤の明確な特徴となったのである。後藤の従来の文字学はすべて文献操作によっていたものであったが、1918年ごろから26〔年〕ごろまでに、20数回も中国に渡り、生きた中国の現実に触れたことによって、文字学よりも土俗的趣味的側面が異常に拡大され始め、村落的生活とか平民的生活とかいう方面に注目するようになった。この時期の後藤は、東洋協会大学の主事兼教授として、あらゆる休みを利用して中国に渡った。この期間の彼には、軍部の暴走や武力に対する批判、また中国人に対する共感といったものがあったことに留意すべきである。
 1927(昭和2)年から没年の45年までが後藤の第三期、「支那通」の時代である。この時期の後藤は、表面的な支那漫遊記によって、安易な中国紹介がどんどん出版した。後藤がのちのちまで軽蔑の眼で見られるようになったのも、この期の活動によるところが大きい。この期の朝太郎はよく「支那帽」を被り、「支那服」に身を固めた姿で講演会の席上、あるいは街頭に現れていた。自分の著書にもそのような姿の写真を多く使った。それは、後世の我々に当時の様子を想像させるヒントを与えてくれる。国民的な中国蔑視の風潮の中で、「支那通」後藤朝太郎の勇気と信念には相当なものがありそうである。
 大正末年から昭和にかけて、中国問題が盛んになってくる中で、後藤は時流に乗って書きまくった。1927年に11冊、28年に4冊、29年に5冊、30年に8冊、満州事変が起きると、冊数が減って、31年に2冊、32年に1冊。1932(昭和7)年までの6年間に彼が出版した書物は31冊に及ぶ。昭和2年〔一九二七〕などは、ほぼ一カ月に一冊ずつ出版したことになる。このような旺盛な筆力は、やはり旺盛な中国旅行によって支えられていた。彼は昭和初年から昭和7年〔一九三二〕までに、およそ20数回、中国に渡っている。中国への旅には、よく妻や子供、実妹などを連れて行った。
 この期の後藤は、どの著作でも日本人の中国観が「頭から非研究的態度」であることを警告していた。彼が中国愛好者であることによって、日本の対中国政策とか国民の中国侮蔑感をなんとか批判しうる立場を獲得していることに注目すべきである。そのようなことが理由となったのであろう。日中戦争が勃発後、後藤は特高警察の尾行、憲兵の逮捕、大学講義内容の検閲、巣鴨拘置所入り等々の迫害を受けるようになり、ついに敗戦直前の1945(昭和20)年8月9日夜八時半、都立高校駅踏切で轢死を装い暗殺されるに至る。
 三石氏は後藤朝太郎の一生を三期に区分したが、三石の分け方を前提にして、もう一時期を加えるべきである。後藤の一生は彼の立身出世前史を入れれば、主に四つの段階に分けられるのではないかと筆者は考える。第一段階(1903~1907)は大学生で、勉学しながら名著を翻訳したりコツコツと自分の言語学の基礎を立てた時期である。この時期(1906年12月)には翻訳書『言語学』を博文館から出版した。これは除外されるべきではない時期だと思う。第二段階(1907~1917)は文字学者、少壮言語学者の時期であり、第三段階(1918~1926)は中国の現実に触れて旺盛に創作しはじめた時期であって、第四段階(1927~1945)は「支那通」で研究者たちからは軽蔑な眼で見られながらも、中国の民族文化や民衆社会を鑑賞、描写する一方、日本の軍国主義権力者に対して、精神的心理的に抵抗した時期でもあった。

 引用文中、「三石善吉」とあるのは、『朝日ジャーナル』一九七二年八月一一日号に「近代日本と中国(27)後藤朝太郎と井上紅梅」という論文を寄せた中国史学者の三石善吉氏(筑波大学名誉教授)のことである。この三石論文は、劉論文に先行する後藤朝太郎研究としては、ほとんど唯一のものと言ってよい(のちに、竹内好・橋川文三編『近代日本と中国 下』朝日新聞社、一九七四、に収録)。ただし、三石氏の後藤に対する評価は、決して肯定的なものではない。
 私は、この劉さんの論文によって、初めて、後藤朝太郎の死の「真相」を知った。やはり、後藤は、特高警察あるいは憲兵にマークされていたのである。「都立高校駅踏切」とあるのは、東急東横線と目黒通りが交差していた踏切で、今日においては、「都立大学駅」北側の目黒通りガードにあたると思われる。おそらく後藤朝太郎は、都立高校駅北側の踏切で、電車が通過するのを待っていた際、何者かに突き出され、東急線の電車に轢かれたのであろう。
 ただし、劉さんは、この後藤朝太郎の死に関わる情報の出所を明記していない。おそらくこれについては、劉さんが一九九八年一月に発表された論文「後藤朝太郎・長野朗子孫訪問記および著作目録」(『環日本海論叢』第14号)で、明らかにされていると推定されるが、国立国会図書館では、この論文を閲覧することができなかった。この論文は、きわめて重要なものと思われるので、インターネットなどで、公開していただくことを要望したい。
 なお、後藤朝太郎を「暗殺」した実行犯は、もちろん断定はできないが、特高警察や憲兵の動きに呼応していた民間右翼あたりではなかったのか。

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