礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金子堅太郎と加藤寛治

2023-01-20 06:23:29 | コラムと名言

◎金子堅太郎と加藤寛治

 昨日のコラムに、さらに補足をおこなう。
 十年ほど前、私は、『日本保守思想のアポリア』(批評社、二〇一三)という本を出した。
 この本を執筆中、金子堅太郎(一八五三~一九四二)という政治家について、いろいろ調べてみたが、金子が加藤寛治という軍人と深く交流していたことを知って意外に思った。
 加藤寛治(かとう・ひろはる、一八七〇~一九三九)については、まだ詳しく調べていない。しかし、大正期、昭和前期の政局に積極的に関与し、日本の命運を左右した軍人のひとりであることは間違いない。
 前掲書を執筆中に読んだ文献のひとつに、飯田直輝氏の「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)という論文がある。その中で、飯田氏は、「天皇機関説問題」をめぐって、加藤寛治が金子堅太郎と面談し、「機関説問題の解決方法を相談した」ことを指摘している。これは、重要な指摘だと思うので、当該部分を引用させていただこう。

 〔一九三五年〕三月十七日、軍事参議官海軍大将加藤寛治が金子〔堅太郎〕の子息武麿〈タケマロ〉を招き、「江藤源九郎問題」を相談した結果、同日金子は加藤に電話し、「美濃部は大問題、荒木【貞夫】、徳富【蘇峰】より尋ねられしも断れり、加藤君なれば語る」と述べた。翌日加藤が金子を訪問し、機関説問題の解決方法を相談した。金子は「憲法制定の沿革、法律学者の誤謬」を説明した上、「解決方法は枢府〔枢密院〕官制第六条に依り御諮詢あるへき事を説示」した(「日記」)。金子は四月一日付加藤宛書翰で述べているように、この問題は「司法、内務両省に於て瀰縫策〈ビホウサク〉にて解決するものとは不存〈ゾンゼズ〉候」として枢密院官制第六条第二項に基づく諮詢によつて「将来の禍根を一掃するの必要」を説いたのだつた。四月一日、金子は子息武麿を通じて「意見書」を首相岡田啓介・文相松田源治に手交、加藤寛治に郵送している。翌日松田から「天皇機関説跡始末」について意見の返答があり、再度金子より書翰が送られたというが同書翰は確認できない。また七日には 同様の「意見書」を陸相林銑十郎・海相大角岑生〈オオスミ・ミネオ〉・教育総監真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉にも送付した(以上、「日記」)。九日、内務省は美濃部〔達吉〕の三著書を発売禁止処分に付し、文部省は各学校に国体明徴の訓令を発した。十日には松田文相が地方長官・大学総長に訓令を与えた。五月二日には松田文相が訓令後の報告に訪れ、「教員等も続々反省改心する情況」を伝えた(「日記」)。
 五月以降、陸軍軍人から憲法問題に関する問い合わせが入るようになる。二日、陸軍大佐鈴木某【貞一カ】が、十八日には予備役陸軍中佐山田耕三が来訪して陸軍次官橋本虎之助ら陸軍将校が「特に天皇機関説に付〈ツキ〉余の意見を聴かんことを請求す」る旨を伝えた。これに対し金子は「陸軍大臣及岡田首相よりの請求ならは承諾せんと返答」した。さらに六月八日には参謀次長杉山元〈ゲン〉が訪れ「軍人統一の点」より金子の意見を陸海軍要部に説明することを希望した。金子はここでも陸海相・参謀本部・首相が希望するなら応諾するとし、杉山は再協議の上、さらに訪問すると述べた(「日記」)。ここからは金子が、機関説に対する自身のこれ以降の行動につき内閣・軍部などの公的な依頼に基づくものであるという正当性を確保するための布石を打っている様子が窺える。この訪問の結果、十一日に橋本次官は「[内閣]書記官長【白根竹介】と天皇機関説に付て語り金子伯起用を説」いているが、元老西園寺公望らは金子の関与を嫌っていたようだ。五月二十五日、「金子伯から総理の所に憲法制定の由来を書いたものを送つて来て、その中に機関説に対して憤慨してゐる動きがあつた」という噂を聞いた原田熊雄が西園寺を訪れ、同邸より白根書記官長に電話で確認したところ、「意見書」が首相・文相・陸相に送られたといい、原田は「それをあんまり大きく政府が扱はないやうに」注意を与えている。そもそも金子が機関説問題を枢密院官制により憲法の疑義として桎密院に諮詢すべきことを希望していたことはさきに述べたが、金子自身も記しているように枢密院での機関説問題の追及は美濃部の師でもある枢密院議長一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉らの責任問題に発展する恐れがあった。

 憲法学者・美濃部達吉の「天皇機関説」が政治問題に発展したキッカケは、一九三五年(昭和一〇)二月一八日に、貴族院議員・菊池武夫が、貴族院本会議において、美濃部達吉の「天皇機関説」を批判したことだった。貴族院議員でもあった美濃部達吉は、これを受けて、同月二五日、貴族院本会議で「一身上の弁明」をおこなった。しかし、問題はこれでおさまらなかった。同月二七日、衆議院議員・江藤源九郎が、衆議院予算総会で、美濃部の著作が不敬罪に当たると告発した。引用した文章の初めのほうに、「江藤源九郎問題」とあるのは、この問題を指している。
 加藤寛治は、「天皇機関説」が、深刻な政治問題になってきた情況を踏まえ、憲法起草者のひとりである金子堅太郎を、この政治問題に引き込もうとしたのであろう。この話は、さらに続けるつもりだが、明日はいったん、話題を変える。

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「大いに不穏当なり」奈良武次侍従武官長

2023-01-19 00:17:20 | コラムと名言

◎「大いに不穏当なり」奈良武次侍従武官長

 今月一二日のコラム「加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題」について、若干、補足をおこないたい。
 その日のコラムでは、『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)所載、鈴木貫太郎による回想記「嵐の侍従長八年」から、「政争と上奏」の節を紹介した。
 そこで鈴木は、「加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題」について、みずから説明をおこなっているが、その説明は正確なものとは言いがたい。
 この問題については、波多野澄雄氏の『宰相鈴木貫太郎の決断』(岩波現代全書、二〇一五年七月)にある説明のほうが詳しく正確で、かつ、典拠も示されている。以下に、波多野氏の説くところを引いておきたい。
 引用は、同書の序章「ロンドン海軍軍縮条約問題」の項より。下線は引用者が付した。

 ロンドン海軍軍縮条約問題
 田中〔義一〕の後任には憲政の常道によって民政党総裁の浜口雄幸に大命が降る。浜口内閣の重大な外交問題が、ロンドン海軍軍縮条約への対応であった。若槻礼次郎全権らは、政府に妥協案の可否を請訓した。その内容は、会議以前に海軍部内でとりまとめられ、閣議でも申し合わされた「三大原則」(補助艦総排水量で対米七割、大型巡洋艦の対米七割、潜水艦の現有量保持)にはわずかに及ばなかった。政府にとっては満足すべき内容であった。しかし、国防をあずかる軍令部は、鈴木〔貫太郎〕の後任、加藤寛治軍令部長を中心に、妥協案の受諾に強硬に反対した。反対論の背後には、海軍部内で絶大な影響力をもつ東郷平八郎元帥や、皇族出身で軍事参議官の伏見宮博恭王〈フシミノミヤ・ヒロヤスオウ〉らが控えていた。これを押さえ込むことには困難が予想された。
 一方、鈴木、牧野〔伸顕〕、西園寺〔公望〕の間では七割に固執せず、条約を成立させようとする浜口内閣を後押しすることで合意していた。天皇もまた、軍縮問題の経過報告のため三月二七日に拝謁した浜口に、「世界の平和の為め早く纏める様努力せよ」との言葉をかけている[浜口日記、一九三〇年三月二七日]。
 浜口内閣はロンドンでの妥協案を受け入れるよう全権団への回訓案を閣議決定して、四月一日に上奏を願い出た。軍令部では、浜口による上奏を阻止するため、加藤軍令部長による帷幄上奏をもって対抗しようとした。内閣による上奏予定日の前日、三月三一日、加藤は帷幄上奏を願い出た。本来なら、統帥事項の上奏は侍従武官長が扱うことになっていたが、鈴木は侍従長という無関係の地位にありながら、海軍の先輩、加藤の前任者であることを理由に、加藤の帷幄〈イアク〉上奏を翌日に延期させた。さらに鈴木は、翌四月一日の加藤の上奏をも却下し、二日に延期させた。この間、浜口首相が四月一日に予定通り回訓案を上奏し、裁可を得た。こうして四月二日、現地で日米英のロンドン海軍軍縮条約の締結にこぎ着けた[伊藤二〇一一、一八〇~八七/茶谷二〇〇九、第一章]。
 鈴木による加藤軍令部長の帷幄上奏の阻止という異例の措置は、本来、取り次ぐべき立場にあった奈良武次〈ナラ・タケジ〉侍従武官長も、「大いに不穏当なり」と批判していた[奈良日記、三〇年四月一日]。
 案の定、鈴木が加藤軍令部長に対抗上奏を延期するように説得したことが、側近の上奏阻止として波紋を広げる。まもなく右翼団体や海軍青年将校の間で問題とされ、四月二一日に召集された第五八特別議会でも、野党政友会によって統帥権干犯問題として浜口内閣に対する攻撃材料とされる。〈八~一〇ページ〉

 波多野氏は、加藤軍令部長の帷幄上奏を鈴木侍従長が阻止したことを、「異例の措置」と捉えている(下線)。ここは、注意しておくべきところである。
 さて、一九三〇年(昭和五)三月・四月のロンドン海軍軍縮条約問題(署名は同年四月二二日)に関わった浜口雄幸首相は、同年一一月一四日、東京駅で銃撃され、翌一九三一年(昭和六)四月一三日に首相を辞任、八月二六日に亡くなった。同じく、この軍縮条約に関わった鈴木貫太郎、牧野伸顕、西園寺公望の三名は、一九三六年(昭和一一)の二・二六事件で、襲撃の対象とされたのであった(牧野は危うく難を逃れ、西園寺への襲撃は直前に中止された)。

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これが奇蹟でなくてなんであろうか(飯島博)

2023-01-18 03:39:37 | コラムと名言

◎これが奇蹟でなくてなんであろうか(飯島博)

『小説公園』第四巻第八号(一九五三年八月)から、飯島博の「生きていた侍従長」という文章を紹介している。本日は、その後半。
 昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。

 回生の輸血が済むと、侍従長の容態はずつと好転したので、一同は別室で一先ず寛【くつろ】いだ。
 薄い冬の日射しは、それでも時の経過をみんなに思い起させた。
 安心感と同時に、急に躯〈カラダ〉から力が抜けて、空腹を覚えた。
 軽い食事を摂【と】り、小休憩すると、色々の話が出た。
「侍従長はどうして刀が見付からなかつたのですか」
 誰かの問いに夫人はこう答えた。
「あんなものは、反つて禍〈ワザワイ〉を醸す〈カモス〉もとと常に考えていましたから、丁度二三日前、風呂敷に包んでいつも置いてある納戸の窓の側〈ソバ〉から、別のところに仕舞つておいたのです。尤も八幡大菩薩と銘のある太身〈フトミ〉の鎗〈ヤリ〉の穂先を仕込んだ護身刀は、これは部屋にあつたのですが、預り物だつたから手をつけなかつたのでしよう」
 これは後日判つたことだが、あの時、侍従長は刀を取りに行つたものの、見当らないので、こんな所でグズグズしていて殺されたのでは、吉良上野介〈キラ・コウズケノスケ〉の二の舞だと考えたので、すぐ出て来たのたそうだ。
 誰かがまた夫人に尋ねた。
「奥さんのことは伺つております、と安藤〔輝三〕大尉が云つたのは何のことでしょう」
「青年協会の理事の青木〔常盤〕さんが、安藤という士官は考え違いをしているから、強く云い聞かせてくれるように、と云つて、官邸に安藤を伴つて来て、半日も話をしていたからでしよう」
 と夫人は答えた。
「『一』さんは御一緒に官邸におられたのですか」
 と聞いたところ、「一」さんは、
「いえ、巣鴨の私邸にいました。私か此処にいたら、きつと殺されていたでしよう。私はどうしても抵抗せざるを得ないから」
 と語ったので、一同は首を垂【た】れて沈黙してしまつた。
 以上が、鈴木侍従長襲撃から医者の治療に至る経緯【けいゐ】であるが、安藤大尉についてなお判然とせぬところがある。これから安藤大尉について述べてみたいと思う。

  安 藤 大 尉 の 心 境【略】

  侍従長の運勢と夫人のこと
 思えば鈴木侍従長は誠に幸運な人であつた。敵に対して毅然【きぜん】たる態度を持【じ】したことは、相手をすでに呑んでしまつたが、急所に当つた三つの弾が何れも重要器官を避けて致命傷とならなかつたこと、加うるに夫人の適切な処置によつて、侍従長は死地を脱したのであつた。
 明治二十七八年〔一八九四・一八九五〕の日清戦争においては、百トン未満の冷飯草履〈ヒヤメシゾウリ〉のごとき水雷艇を駆つて、威海衛〈イカイエイ〉の軍港探く突入し、夜なお昼を欺く探照燈の照射の中を無事脱出したこと、明治三十七八年〔一九〇四・一九〇五〕の日露戦争における、軍艦の船室内におこつた一酸化炭素ガスの中毒、更には此の度の遭難である。
 頭、胸、腹といずれも厄介至極な急所だ。しかるに大切な脳髄、心臓、腸管、腹膜には何等の傷を受けていなかつた。こうしたことは、そうざらにあるものではない。撃たれるものと、弾の射入角とのきわどい兼合【かねあひ】である。これが奇蹟でなくてなんであろうか。
【一行アキ】
 孝子夫人は、新渡戸〔稲造〕博士と同学の足立元太郎農学士の令嬢で、小石川女子師範〔東京高等女子師範学校〕を出、さきに皇孫殿にあつて今上陛下、秩父、高松の三皇孫に侍して育英に当つていた。
 夫人は現在千葉県関宿〈セキヤド〉に住まれて、酪農を援助されたり、その寛容な気性から農家とも親しみ、かつ、子弟の教育をも心掛けておられる。
 敗戦の今日なおも思い出されるのは、当時の夫人の機敏な措置【そち】である。それは単に、鈴木侍従長の命を救つたばかりでなく、延【ひ】いては敗戦時の大事をも、無事乗り切ることが出来たのであつた。
 夫人は鷹湖と号して、よく日本画をものされる。そして洋々たる滄江に取囲まれた関宿の地に、今は静かに余生を楽しんでおられる。  (医学博士)

 鈴木たか(孝子)の父・足立元太郎は、新渡戸稲造と「同学」とあるが、ともに札幌農学校の二回生である(ということは、内村鑑三とも同学ということになる)。新渡戸稲造がキリスト教徒(クエーカー)であったことは、よく知られているが、足立元太郎もキリスト教徒であり、その娘である鈴木たかもキリスト教徒(クエーカー)であったという(ウィキペディア「鈴木たか」)。
 明日は、「加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題」(今月一二日のコラム参照)の補足をおこなう。

今日の名言 2013・1・18

◎頭、胸、腹といずれも厄介至極な急所だ

 鈴木貫太郎侍従長は、二・二六事件で、瀕死の重傷を負いながら、奇蹟的に命を取りとめた。その鈴木侍従長の病状について、輸血を担当した飯島博博士が語った言葉。上記コラム参照。

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某伍長は、銃を左手に持ち代えて車の踏み台に立ち……

2023-01-17 04:10:07 | コラムと名言

◎某伍長は、銃を左手に持ち代えて車の踏み台に立ち……

 昨日のコラムの補足である。
 昨日のコラムで、鈴木貫太郎の回想記に出てくる「飯島博士」とは、「たぶん飯島博博士のことであろう」と書いた。この推定は、間違っていなかった。そう書いたあとに、国立国会図書館に赴いて調べたところ、飯島博博士は、戦後になって、「生きていた侍従長」という文章を雑誌に発表していた。あまり知られていない文章だと思うので、本日と明日は、これを紹介してみよう。出典は、『小説公園』第四巻第八号(一九五三年八月)である。

  生 き て い た 侍 従 長     飯 島 博【いいじま ひろし】

 昭和十一年二月二十六日、日本中を震撼【しんかん】させた所謂「二・二六事件」は、最近に至つて小説「叛乱」においてその全貌が再現されました。尨大【ぼうだい】な資料を縦横に駆使して、よくここまで事実を調べ上げたものと賞賛の的となつておりますが、なおもここで私が口を挟むもうとするのは、折角評判の小説に半畳を入れるためでは勿論なく、私自身鈴木侍従長の身近にあつて治療し、親しく事件を見聞【けんぶん】したものとして、なお一層の正確さを願い、立派な作品として洛陽【らくよう】の紙価を貴からしめたい気持に他なりません。

  そ の 前 夜【略】

  鈴 木 侍 従 長 斃 る
【約三ページ分、略】
 その時パッと飛び込んで来た人が、血潮でべつとりと濡れた畳に、危く滑りそうになりながら、
「奥様、私が来ました」
 と云つた。この日まつ先にやつて来た塩田〔廣重〕先生であつた。
 急場のこととて、繃帯の用意もないことを見てとると、側〈ソバ〉に白羽二重〈シロハブタエ〉を引裂いて頭部に巻き始めた。この時、稲垣、足立、吉田の三先生が現れ、後を追うように令嬢の「さかへ」さんや子息の「一」さん夫妻もやつて来た。
 一同はじつと息を呑んで、医師の繃帯を巻く手を見詰めていた。やがてそれが済もうとした時、
「なんだか腰がさむい」
 という侍従長の声に、躯〈カラダ〉を静かに蒲団に移した時だつた。顔色が土気色〈ツチケイロ〉に急変し、目を閉じてしまつた。
 一同は色を失つた。
 ことの重大さに部屋中が狼狽の渦〈ウズ〉に落ちこむ中にあつて、「一」さんと「さかへ」さんは端然と坐したまま、顔色こそ変つていたが、決して見苦しい態度を見せようとはしなかつた。「一」さんの夫人「布美子」さんは、最初侍従長の姿を見た時烈しく嗚咽【おえつ】したが、やはり取乱さなかつた。
 一方そうした近親者たちの毅然とし態度をよそに、医者たちはあわてふためいていた。
 それは責任の余りの重大さに、心身を鞭〈ムチ〉うたれたからであろう。
 塩田先生は二十分も経たない中〈ウチ〉に、二人の白衣の先生を伴つて戻つて来た。「リンゲル」液が直ちに注入された。この適切な処置が侍従長を死から救うキッカケとなつた のであつた。
【一行アキ】
 鈴木侍従長襲撃の電話を受けると、私はすぐに車に飛び乗つて、大森山王の自宅から京浜国道を北へ北へと急いだ。輸血が遅れてはならなかつた。
 葵坂〈アオイザカ〉まで来ると、坂の途中に少数の兵がいて車を通してくれない。朝早くからの雪中演習と思つて、車を戻し、現在の文部省の北側の急坂を昇つて、首相官邸前の三角形の広場に出た。
 此処も沢山の兵隊で固められていて、車は物々しい銃剣に取り囲まれてしまつた。これは只事じやないと気付いたが、何と弁明しても通行を許してくれない。その時、訊問するためにやつて来た伍長が、
「アッ、先生ですか。私は三年前に手術してもらつて御世話になつた某というものです。これからどちらへ行かれますか」
 といつたので私は吃驚【びつくり】したが、早速渡りに舟と、急患があつて九段方面に往診する由〈ヨシ〉を語つたところ、詰問するどころか、銃を左手に持ち代えて車の踏み台に突つ立ち決つ立ち、窓枠に右手をかけて、要所要所に挨拶し、英国大使館附近まで送り出してくれたので、ようやく虎口を脱することが出来た。
 官邸の外部は尾島〔健次郎〕という曹長が機関銃を持ち、六十名の兵隊とともに警戒していたのだから、若しこの時、あの伍長に出遇わなかつたならば、私は殺されたかも知れないし、侍従長を救う機会を永久に失つてしまつただろう。実に天佑というべきである。【以下、次回】

 特に、【一行アキ】以降は、当事者以外には語れない、貴重な証言だと思う。それにしても、この「伍長」の名前がわからないものだろうか。

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鈴木貫太郎「ここに一つ不思議な話があつた」

2023-01-16 02:57:53 | コラムと名言

◎鈴木貫太郎「ここに一つ不思議な話があつた」

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その六回目(最後)。昨日、紹介した「思想の犠牲 安藤大尉」の節のあとにある「死より再生す」の節を紹介する。
 なお、この「死より再生す」の節は、かつて、当ブログの〝鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」〟という記事の中で、「二・二六事件」の節とともに、紹介したことがある(2016・2・25)。それと重複するが、補足することもあるので、再度、紹介しておきたい。

  死より再生す
 襲撃隊が引揚げると同時に、妻は私を抱き起して出血する個所、殊に頭と胸の血止めに努めた。それから電話で事の次第を侍従職に告げ侍医の来診をお願いした。その時の当直の侍従は黒田〔長敬〕子爵であつたが、すぐ知合いの塩田廣重博士に電話で診察を頼んでくれた。間もなく真先に湯浅〔倉平〕宮内大臣が見舞に見えられたので、私はその御好意を感謝し、「私は大丈夫ですから御安心して頂くよう、どうか陛下に申上げて下さい」とお願いした。血が、ドクドクと流れるので、妻から「もう口を利いてはいけません」と云われた。つづいて廣幡〔忠隆〕皇后宮大夫が見舞に来られた時は只目礼で謝意を表した。まだ三十分から一時間と経たないうちに、塩田博士が御自分の自動車を待つ間ももどかしく、円タクを拾つて駈けつけて下さつた。博士は妻に、「私が来たから大丈夫だ、御安心なさい」と言葉をかけて部屋へ入ると、一面の血に辷つて〈スベッテ〉転ばれたのであつた。博士はお宅を出る時飯田町の日本医大に緊急の用意を命令して来られたので、御自身は医療の道具を持つておられなかつた。すぐ現状を診断され、気忙し気〈キゼワシゲ〉に妻に繃帯はありませんかと云われ、ありませんと答えると何でもいいから白布を出しなさいとのことで、それならばと羽二重〈ハブタエ〉の反物を切つて使つた。一応それで出血を止めた。私は寒い寒いと云つたそうだが、だんだん冷たくなる、脚が冷える、例とかしてくれそうなものだと思つたが、怪我をした者は動かしてはいけないというので畳の上に転がつたままだつた。それでもどうやら一間〈イッケン〉ばかりの所につくつた床の上に移されたが、その動かした後で意識がなくなつてしまつた。塩田博士は雪の中を円タクを見つけて日本医大へ行かれたが、この時には稲垣博士と吉田博士が見えていた。稲垣さんは輸血の方へ電話をかける。妻は駄目かと心配しながら懸命に霊気術をかけている。そこへ白衣の塩田博士が二名の助手を連れて帰つて来られた。すぐにリンゲルの注射が打たれ、この時私は気がついた。
 飯島〔博〕博士が輸血者を連れて来て、稲垣さんが輸血をすることになつた。五百グラム採血する途中、脈がだんだん衰弱して来てこれ以上待てないので、取敢えず三百グラム注入するとこれがよく利いた。脈がしつかりして来たので十畳の間へ移り、夜になつてから床の下に乾板を入れてレントゲンを撮り弾丸のありかを調べた。こうして治療は続けられて行つたが、ここに一つ不思議な話があつた。それは飯島博士が輸血者を伴なつて急いで来る途中、総理大臣官邸の前で兵に車を止められた。それで議会の方へ抜けようとすると又止められて何処へ行くと問われた。鈴木侍従長の所へ行くと云つたら、下士官が行つちやあいかんと云つて自動車へ乗り込んで来た。そして御案内しましようと云つて英国大使館前までついて来てくれ、ここまで来れば大丈夫ですと別れた。それは飯島さんの病院で一カ月前に助けられた人だつた。
 十日間絶対安静で仰向けに寝たままだつたが一週間目ぐらいに塩田博士から「もうこちらのものになりましたよ」と云われたので愁眉を開いた。
 この時の顳顬【こめかみ】に入つた弾丸は耳の後に抜け心臓部の弾丸は背中にとどまつて今でも残つている。心臓を貫いたのだというのと、その傍を廻つたのだというのと二説ある。最近は心臓を貫いてもすぐ血をとめれば生ききられると云うことだが、これは妻が必死にやつた霊気術止血法が成功したのかも知れない。
 私は最初死去したと報道され、後〈ノチ〉重傷で命は取り留めたと報道されたので、叛軍が再撃を図る恐れがあるというので、当局では厳重な警戒を怠らなかつたそうである。
 臥床中宮中から栄養物、スープ、牛乳など毎日のように御鄭重な御下賜品があつた。私は御慈愛に感激した。又各方面からの懇ろな御見舞を受けて感謝に堪えなかつた。
 傷は重かつたのに拘わらず予後は順調で五月中旬頃参内して親しく御礼を申上げ、その夏には葉山にお伴し、九月北海道の陸軍大演習にも、十月の海軍特別大演箇にもお伴したが、奉仕は七十になつたら御辞退申上げるつもりでいたので、丁度その十一月に御暇を願うことにし、幸いお許しが出たので時従長八年の奉仕を終えることになつたのである。その翌年から毎年二月二十六日には齋藤實高橋是清渡邊錠太郎大将のお墓詣りをすることを今日まで定例としている次第である。
 侍従長を拝辞してかけは専ら枢密顧問官としてお勤めし、昭和十五年〔一九四〇〕枢密院副議長、同十九年〔一九四四〕議長。終戦内閣の総理大臣になつた。

 飯島博士というのは、たぶん飯島博医学博士のことであろう(同博士には、「輸血」関係の論文がある)。それにしても、飯島博士と輸血者が乗った車を、飯島博士に世話になったことがある下士官が停止させ、安全なところまで案内したというのは、ずいぶん「不思議な話」である。
 ところで、二〇一六年に当ブログで、この「死より再生す」という文章を紹介したとき、「霊気術」をインターネット検索したところ、「鈴木貫太郎の命を救ったレイキ(日本発祥の手当て療法)」という記事にヒットした。その記事によれば、レイキ(霊気術)とは塩谷信男医学博士(一九〇二~二〇〇八)が開発した「ハンドヒーリング」である、とのことだった。
 今回、改めて、その記事を読もうとしたが、どうしても見つからなかった。かわりに、ウィキペディアに、「臼井甕男」という項を見つけた。同項によれば、「現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法」は、臼井甕男(うすい・みかお、一八六五~一九二六)が創始した「臼井靈氣療法」のことだという。
 臼井甕男は、一九二二年(大正一一)四月に、「臼井霊気療法学会」を設立したという。時期からいって、鈴木たかが、同学会の「霊気術」を学んでいたことはありうる。ただし、臼井甕男と鈴木たかとの接点は未詳。

今日の名言 2023・1・16

◎もうこちらのものになりましたよ

 瀕死の鈴木貫太郎を救った日本医大の塩田廣重博士の言葉。あやうく「あの世」の者になるところが、「この世」の者として戻ってきたという意味だろう。上記コラム参照。

*このブログの人気記事 2023・1・16(9・10位に珍しいものが入っています)

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