あの日

2021-03-11 18:25:09 | 学習塾・勉強の仕方

10年前の今日、私は三ツ境駅前の不動産会社のオフィスにいました。

三ツ境教室のテナント契約の日でした。

関係者が大きなテーブルを囲んで向かい合っていたそのとき、地震が発生しました。

地震には慣れているので、このときもすぐに収まるだろうくらいの軽い気持ちでした。

しかし、揺れは全然収まる気配もなく、いつまでも長く、そして次第にその激しさを増して行き、私以外の全員が恐怖からか、みな建物の外に飛び出して行きました。

窓から外を見ると、道行く人も皆激しく波打つ電線を見て驚き、隣のビルからも人が飛び出しておろおろしていましたが、そういう私の前には契約のためのお金が100万円くらい置かれたままで、ここで私も外に出たら、これもそのまま放置ということになるので、おいそれと動けもせず、その間の時間の長さだけが今も印象に残っています。

揺れが収まって、皆が戻ってきて契約を済ませ、私はそのまま藤沢教室に車で向かいました。

西友の建物前では沢山の人たちが立ち尽くしていました。

藤沢の教室を開けると、書棚が倒れて沢山の本などが床に散乱しており、しばらくはその片付けに終われました。

その夜の授業は全て中止とし、その連絡を済ませたとき、電話が鳴って、私立小に通う塾生の父親が電話口で「子供の母親と連絡が取れません。二人とも仕事なのですが、私は今静岡にいて、電車も止まっているので帰宅できるかどうかも分かりません。子供とは先ほど連絡が取れたので、すみませんが塾の教室に行かせますので、暫く見ていただけないでしょうか」とのこと。

それを了解して暫くすると、その子(小2)が不安げな顔でやってきて、今にも泣きそうな顔をして「お母さんと話が出来ない」と言いました。

不安が先に立って食欲もなさそうな彼を商店街のファミレスに連れて行き、簡単な食事をとらせた後、彼を自宅まで送りましたが、家は真っ暗で人の気配もなし。

小2の子を放って帰るのも気が引けるし、教室もこれ以上人が来ないよう保護者たちには連絡も済んでいるので、私は暫く彼の家で彼のお守りをする格好で待機しました。

深夜近くになって、母親が泣き出しそうな顔で家のドアを押して帰ってきて、電車が止まっていたので、仕事先から長い距離を歩いてきました、と言いました。

その日、地震の後で自分の携帯が動作していたかどうかの記憶がありません。

後になって、その日は大阪に帰省中だったりん先生がテレビで地震のニュースで、横浜市内でビルのガラスが割れて地上に落下して何人かが怪我を負ったというのを見て、とにかく心配で電話を架けようとしたが繋がらなかったなどといっていたので、部分的には不通もあったのではないかと思います。

千葉に住む損保時代の同課の子からもメールが来ていて「心配。とりあえず生死だけでも確かめたい」というような文面でした。

混乱は翌日以降本格化して、ガソリンスタンドは長蛇の列で給油もままならないし、電気はしょっちゅう止まってしまって仕事に支障はあるしで、悪い夢のようでも、これが現実であること、繰り返し報道で見ることになる東北各地の惨状に、自分に何が出来るのかを自問する日々が暫く続きました。

 

 

あれから10年。

あの日、まだ幼稚園や保育園生だった子達の、今日は中学卒業式。

 


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