勉強なんて(なんて、という言い方がよいかどうかはこの際別にして)、できればそれに越したことはないし、できなければできないで生きていく上で決定的な障害になるわけでもありません。
とは、私が中学生だった頃、先生に言われた言葉です。 この先生はちょっと個性的であって、他の先生のように決まりきったことをあまり言わないのが特徴でしたが、アルコール中毒であったことが自身の評価を落としていて、校長先生などもあからさまに彼を小馬鹿にしていた感じがありました。
私としては、それでも自分のスタイルを貫こうとするこの先生には一目を置いていたものです。
その彼が言った言葉の一つに、「負けるには負けるだけのわけがある」という意味のものがありました。
後に私はこれと同じ意味の言葉をニュースか何かで見ました。それは故野村克也氏の言葉でした。 野村氏が野球の試合の勝ち負けについて語った言葉の中に、「負けに不思議の負けなし」というのがあって、これを目にした時は、ぼんやりとその意味を想像したものですが、今は、この言葉が言わんとする本来の意味が私にはよくわかります。
ことは野球の試合だけではもちろんなく、「人が生きていく上での様々な局面で言えること」ではないかとさえ思います。勿論、冒頭書いた「勉強」においても。 「できなければ、それはそれでいいや」と達観というか、見方によっては開き直るような受け止めの仕方をよしとするならば、それもまた一つの生き方ではあると思います。
でも、(勉強を)やってこなかった結果として、生きていく上で直面する多くの場面で様々意に沿わない制約を強いられる時(くだいて言えば、学歴や学力の不足や違いだけで戦う前から不利益を被る理不尽さ)が、きっと人生のどこかで待っていると思うのです。 今、私は敢えてこれ(上に書いた理不尽さ)を「負け」と評しています。そして、この負けの理由は極めて単純で、そこには何の不思議もありません。理由は単に「やってこなかったから」です。
勿論異論はあるかと思います。
そもそも、そんなものは誰にでもあることであって「負け」でもなんでもないではないか、という人もいるでしょう。
中学生のある時期、私は自身そこそこ勉強が出来るということに慢心するあまり、日常のこまごまとした義務的なことをないがしろにすることも少なくなく、そういう状態でそのまま卒業していくことをきっとあの時の先生は戒める意味で言ったのだと今は思います。そんな舐めた生き方をしていくようでは、お前はきっとどこかで人生の理不尽さに直面するぞ。そして、その時になっていくら反省しても後悔しても、そうなった理由に不思議なところなど何もないんだよ。誰もせいでもない、全て自分の蒔いた種なんだ、と。
昔、まだ損保に勤めていた頃、それ以前からの古い友人が仕事を探しているのを聞いて、人事部に紹介したことがあります。
まだバブルの名残があるころで、人はいくらいても足りなかったのでしょう、会社としても常時有能な人材を発掘していました。
彼は有名大学を卒業後、国家公務員になっていましたが、思うところあって退職し、次の仕事を探していたのでした。
中途採用の試験はペーパーテストの後の数次にわたる面接試験という順番で進み、彼は最終の役員面接まできましたので、私はもうここまで来れば合格採用に間違いあるまいと思っていたところ、結果はよもやの不合格。
通常こうした場合、不合格の理由は明かされませんが、だいぶたってからの周辺情報で、その一端らしきものが、真偽のほどはともかく、私の耳にも入ってきました。
かいつまんでいえば、それは彼の話し方、言葉の使い方ということでした。 もう少しいやらしい言い方をすれば、役員から見た時に、彼の発する言葉や態度が金融機関の職員としては相応しくない、自社の体面を保つ上で難があると。 友人の私からすれば、気さくな彼の性格をそのまま体現したような彼の言葉づかいはむしろ好きでしたので、そんなことが理由で彼が評価されなかったということが意外といえば意外でした。
今、立場が変わって、若い講師たちと相対するときに、私は初めてオトナから見たときに気になる、許容できない若者言葉というものがわかる気がし出しました。
私に限るならまだしも、それがたとえば保護者相手になると、「だから~」「なのでえ」などは、失礼以外の何ものでもありません。 こうした不必要に語尾を上げたり伸ばしたりの言葉づかいに加え、最近は「大丈夫ですか」も気に入りません。 「来週ちょっと予定が入ってしまって、(授業に)少し遅れます。大丈夫ですか」なんて言われると、「何を偉そうに。そこはひたすら謝って許可を乞う場面だろうが」などと思います。
コンビニで、レジの子が客に「レシートはお使いになりますか」と訊いたときに「大丈夫です」と答えた子を見たことがありますが、厳密に言えば、この子たち、会話がかみ合っていません。